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丹波篠山地名考

「風深(ふうか)」

風深 篠山盆地の中央部、篠山川中流域に位置しています。往古から篠山川の氾濫源(河流が運んできた土砂が堆積して、河川沿いにできた平地)でした。そんなところから、泥深いところといわれ、それがなまって「風深」になったと言い伝えられています。
豊臣氏の時代(1580年代)は、豊臣家の蔵入地(領主が直接年貢や諸役を徴収する豊臣氏の直轄地)でありましたが、慶長13年(1608年)篠山藩領となりました。風深は古くから黒岡村の内でした。しかし、篠山城築城後に分村し、「風深村」として独立したといわれています。
 文化・文政のころ(1800~1830年ころ)篠山地方は干ばつや洪水・虫害による大凶作と、はやり病に見まわれ、百姓は大変な生活を強いられたのでした。
 風深村では、年貢を納めるのに困ってしまいました。人々は知恵を出し合い、村役人が村中の了解を取り付けたうえで、谷山村の庄屋仲七に風深村として借金を申し入れたのでした。文化12年(1815年)のことです。借金返済の方法として、「夜業ヲ以日せん軒別五文ツツ日々ニ私共ヘ取立毎月晦日ニ急度差出シ申ス可候…」と、毎日夜なべで稼ぎ、5文ずつ集めて月賦で支払うというものです。
 風深村の心意気に感じた庄屋仲七は、借財を融通してくれました。谷山村だって裕福ではありませんでした。その5年後、村内の権左衛門が3石の拝借米が払えず、庄屋仲七と連名で代官所に無利息7年賦にしてもらうよう願い出ています。当時は、近くの村どうしが助け合い、支え合って百姓を守っていたのでした。

(参照図書) 角川日本地名大辞典、田中秀夫注釈「風深文書」
兵庫県文化財保護指導委員 大路 靖


▼風深交差点付近