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丹波篠山地名考

「城北(じょうほく)」

 慶長14年(1609)の篠山築城によって、城の北に位置するため「城北」と呼ばれています。
 延喜式神名帳(917)には、寺内にある「大売神社」の名があります。当時は「日置郷」と呼ばれ、篠山川北側の広範囲な土地であったようです。
 ところが、南北朝時代には国人や武士などの違乱・押領などによって細分化され、複雑に入り乱れていました。「三箇北荘」と呼ばれた地域は、寺内、大熊、佐倉、鷲尾、知足、熊谷、藤岡、大谷と今福(旧岡野村)でした。「日置荘」は、黒岡、風深、郡家、沢田。「安行荘」は、新荘と野間が。また、沢田付近を「つぼの荘」ともいう時期があったようです。このように、荘園領主が衰退したり、国人や武士の押領などで、その名称も変えられていったと考えられます。また、近年発見の舞鶴市「多称寺」所蔵の大般若経には、承久3年(1221)「丹波国多記郡遊楽荘常楽寺御経也」と書かれたものが多数見つかり、中には「東窟寺」ともありますので、藤岡も一時期は遊楽荘内だったのでしょうか。
 このように、広範囲の荘園が時代と共に細分化されてきましたが、江戸時代には「新荘組」となり、明治22年から昭和30年まで「城北村」となりました。
 そして、昭和30年以後「篠山町」となり、平成11年から「篠山市」に拡大されました。これは、荘園時代の広域行政区画に逆もどりした感があります。

(参照図書) 角川日本地名大辞典、丹波の荘園
丹波史懇話会会長 中野 卓郎


▼北から城北小学校を望む