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義民・市原清兵衛伝説

市原清兵衛石碑
 丹波篠山地方は元禄時代(1688年~1703年)の頃から農閑期に池田や伊丹に酒造稼ぎに行くことが盛んになった。ところが宝暦、天明(1751年~1788年)の頃になると各地で天災が続き、凶作が続きました。
 篠山藩においてはこれらの原因として農民が酒造稼ぎ、その他で稼ぎに出るため田畑の管理が充分出来ないことだとして、厳しい「出稼ぎ禁足令」を出し、違反する者については、過酷な処罰でのぞんだといいます。篠山藩内村々においては、この「禁足令」が長引けば生活がたちいかないとして、度々寄合がもたれたが得策もないままでありました。


 これらの村々の窮状を知った、今田市原村の清兵衛は寛政12年(1800年)子息佐七とともにひそかに江戸に上り、藩主に直訴におよびました。清兵衛、佐七父子は取らえられ入牢を申し渡されたが、命をかけた清兵衛父子の願いは2年後に実を結び藩は酒造稼ぎについて、秋彼岸より春3月までの100日間の出稼ぎを許可し、さらに杜氏と脇杜氏にかぎって、酒焚(火入れ)、土用洗い、渋染めの夏居30日を認めたのでした。
 その後、益々酒造出稼ぎは盛んになったが藩は文化10年(1812)「御条目」を公布し、酒造出稼ぎについては届出制にしました。清兵衛父子はその後、永牢から解放され、藩内村々の人達から温かく迎えられました。しかし藩は1石の年貢に1石5升を納めよという厳しい年貢の取りたてを行ったため清兵衛父子は再度、直訴におよんだが、その途中、相模藤沢の宿で藩の刺客によって殺されたとも永久追放されたとも、伝えられていますが明らかではありません。


 命をかけて『酒造出稼ぎ禁足令』をといてくれた、市原村の清兵衛、佐七父子、毎年丹波杜氏は清兵衛の碑の前で遺徳を偲び、今年もよい酒が出来るよう、誓って蔵入りするのです。

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