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「畑治男特筆編集」

篠山市の歴史に刻まれた
先賢の足跡が語る
~渡遽弗措(わたなべふっそ)編~

 

三、渡遽弗措(わたなべふっそ)


…世順・伯信・亮太郎と称す…
-向学心にもえて師について学び、江戸期から明治初年にかけて、多くの子弟を教えた-

(明治18(1885)年2月6日病投 67才)

 弗措の家は、篠山藩の小臣で、幼児から読書を好み、京都の篤学者猪飼敬所も弗措を愛した。弗措は応対が明朗であって、大塩平八郎が訪れるごとに感心してほめたたえということである。
弗措は常に他の蔵書を借覧して学業を進めた。時に18才の若さであって、敬所が事故ある時は、身分の高い家の人に対する講義も代講したのであった。
 弘化4年江戸に出て佐藤一斎に学び、嘉永元年には昌平校に入って学びつつ、その傍ら子弟を教えた。
 郷土篠山においては、篠山藩校の教授をしたり、青山忠誠(ただしげ)公に学問の講義をおこなった。明治9(1876)年の春日神社境内に「篠山中年学会」が設立されたときには、その教授をつとめ、神戸師範学校の教授にもなった。
 要するに弗措は、名誉や利益を超脱してひたすら講学につとめたというすばらしい学者であり、教育者であった。