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籾井城跡(福住)

福住バス停から徒歩約25分

 福住の集落の北方、城山・白尾山(390メートル)に「籾井城跡」があり、安田城・福住城とも呼ばれる。
 『籾井家日記』や『織田軍記』によると、天正年間(1573~92)の初めに、籾井越中守教業が築いたと言われる。教業は波多野秀治に属し、秀治の弟・秀尚が亀山城におった折には、船井郡八田城に拠って援護した。
 彼は武勇にすぐれ「丹波の青鬼」と恐れられたが、天正5年11月、明智軍の藤堂勢と本明谷川付近の激戦で敗れて自害し、落城したとしている。
 籾井家の子孫が伝えている『福泉・系図並由緒書』によると、籾井河内守照綱が永正年間(1504~21)に築城。嫡男・右近太夫綱重が後を継ぎ、落城時は下野守綱利で25歳であったという。綱重はのがれて、綱利の子をつれ京都に上り、子孫は福泉と称し代々藤堂家に仕えたと言われる。
 頂上の本丸跡は約600平方メートルで、本郷房太郎大将筆の「籾城公園」の碑が建ち、二の丸、三の丸や堀切もよく残っている。大手は南西の安田から登るところ、搦手は菩提所の本休寺(元・金林寺)あたりである。

「丹波篠山五十三次ガイド(改定版)」(平成7年8月発行)より
※地名・交通経路等は書籍発行時のもので、現在の状況とは異なる場合がありますのでご注意ください。