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ささやまのみんわしゅう 文・画 田中貞典


■ 文化の大火と尊宝寺

文化の大火と尊宝寺 篠山の町は、文化年間には特に火事がたくさんありました。そのころは町といっても草葺き屋根が多かったので風の吹くときの火事は大火事になりました。
 文化4年(1807)2月18日は朝から強い風が吹いていました。この日、篠山城の南堀端の豊嶋八左衛門さんの家から出火しました。見る見る内に南角の中間長屋を一なめにして、火は餌差町に移り、中山靖左衛門さんの家を焼いて、その火は北に向い、宝寿院、観音堂から天神社を焼き払い、さらに東南に転じて、上立町の吉田屋少路から町の両側を焼きながら牢屋少路を焼き、下立町は火の海となりました。
 尊宝寺も来迎寺も、焼き払って呉服町に移りました。呉服町は4、5軒を焼いただけで止まりましたが、黒岡方面に飛び火して、火の手が上がりました。
 ところが、この大火の中にあって、焼けなかったのが、尊宝寺の山門でした。
 あれだけの火の海の中にあって、山門だけが焼けずに残ったのを見て、誰もが不思議に思ったのでした。
 尊宝寺の山門の屋根裏に、左甚五郎の作であると伝えられている一匹の木の彫刻獅子があがっていますが、この山門の獅子は、又妙な具合に妙な場所に置かれたもので、いつ頃の誰の作なのか分かりません。けやきの見事な彫刻です。尊宝寺の復興には17年の年月がかかったそうです。