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丹波篠山の有名人題字 吉田鳳舟


木戸静斎

碁盤師の名人 木戸静斎
 木戸静斎(本名善五郎)は碁盤師として全国を行脚し、全国各地の棋士に打ちやすい盤を作る碁盤師として高く評価されました。
 静斎は明治27年(1894)12月、兵庫県多紀郡村雲村向井(現在篠山町向井)の木戸伊三郎、くに夫婦の長男として生まれました。
 学業を終えると父伊三郎の大工の仕事を手伝い、腕の良い職人として近隣に聞こえました。 ところが、昭和初年のふとしたことから「碁盤目盛り技術」に興味を覚え、大工仕事のかたわら研究を重ね、目盛り技術だけでなく、碁盤作りにも知識を得、碁盤師として出発したのは1931年の5月でした。
 その後、旅先で腕を磨き、また多くの棋士と交わりましたが、彼を碁盤師名人にまで仕立て上げたのは日本棋院4段の九橋清閑、女流棋士吉田操子4段、さらに木谷寛6段(後に9段)らでした。九橋4段は静斎の号を与え、吉田、木谷両氏は静斎の仕事にほれこみ、側面から仕事の援助に手をさしのべました。
 戦中、戦後は囲碁どころではありませんでしたが、世の中が落ち着き、囲碁も盛んになると静斎の仕事も増え、北は北海道から南は九州鹿児島まで愛輪に道具を積んでの行脚でした。その走破した距離は3000キロにも達し、30年に及ぶ旅でした。その技量は日本棋界に認められ、誰言うところなく「碁盤作りの名人」と称えられ、1959年地元多紀村(現篠山市)の無形文化財に指定をという話が持ち上がりましたが、「地元で役立つ仕事をしていない」「指定されると自由な仕事ができない」と固く辞退されました。
 その後、多くの仕事を手がけ、その製作数は3000以上に及んだと云われていますが、1968年、74歳の時、碁盤師として引退を決意、後一切のみを持たず、読書を愛し、孫と遊ぶ好々爺として暮らしましたが、1975年に大病を患い、老衰も重なって、1979年6月、不帰の客となってしまいました。行年84歳でした。