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丹波篠山の有名人題字 吉田鳳舟


八ッ子太夫

篠山の生んだ能楽師 八ッ子太夫
 八ッ子太夫は、名を畑福蔵といって、天正7年(1579)、八上城落城の年に畑村(現篠山市畑地域)で生まれた。 その後、父福蔵は縁あって、氷上郡和田城主佐野下総守に召し抱えられた。 その時、八ッ子太夫は8歳、舞が大変じょうずであったので、佐野下総守から八ッ子太夫の名をもらい、さらに南都四座の1つ、宝生太夫に入門することを許された。 そして、天正16年(1588)、八ッ子太夫は、和田三ノ宮明神社(狭宮神社)の神能いっさいを取り仕切り、その功によって宅地租税を免ぜられた。 さらに、宝生太夫のもとで芸を磨き、南都薪能に宝生流連役として活躍した。 また毎年行われる丹後国宇良神社(丹後半島北部)の神能勤仕に宝生太夫とともに出かけたことが記録に残っている。 丹波申楽の流れをくみながら、その芸域を拓け、京都、奈良に多くの支持者をもったことが、伊藤東涯の詠んだ詩の中にもうかがい知ることが出来る。
 慶安4年(1651)畑福蔵こと八ッ子太夫は歿した。年72才。しかし八ッ子太夫の技はのち代々八ッ子太夫と称して受け継がれていった。