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理念・基本方針



多数のご応募をいただきまして、誠にありがとうございました。
60通のご応募の中から入賞した3組を発表します。

最優秀賞 篠山市 男性 58才 ※匿名希望
優秀賞 篠山市 男性 62才 ※匿名希望
丹波市 女性 36才 ※匿名希望


最優秀賞 篠山市 男性 58才 ※匿名希望 「新しいたんば田園交響ホールに期待すること、夢」

 『夢』には多分「かなわない夢」と「かなう夢」があるのだろう。おかしな例で恐縮だが、私が趣味で奏でる楽器で、「たんば田園交響ホール」を満員するなどは、さしずめ間違いなく「かなわない夢」といえる。従ってこれは「空想」の世界となる。しかし、内外の素晴らしいクラシック演奏家を招いて、このホールを満員にするのは、きっと「かなう夢」に違いない。800名のホールは、やはり満員にしてこそ演奏者と観客が一体となったコンサートとなる。音響効果も生きる。ジャンルに関わらず、良いライブというものは、ミュージシャンとファンが呼応しながら熱いコンサートとなって進行していくのである。
 1988年4月、篠山市民の待ちに待った「たんば田園交響ホール」が大阪フィルのベートーベン「田園」で輝かしい旅立ちをした。見事な演奏と素晴らしい音響に観客は酔いしれたことであろう。
 多くの市民、特にこのホールが出来るまで北濠端の旧鳳鳴高校体育館などでコンサートに携わった人達にとっては、まさに夢がかなった感動の瞬間だったと思う。
 その後、綺羅星のごとく輝く多くのアーチストが篠山を訪れ、印象に残るコンサートを残していった。これには歴代ホールスタッフの企画力やステージオペレーターの皆さんの尽力に負うところも大きかったのであろう。
 しかし実はと言うか、やっぱりと言うか、クラシック系統の観客動員力は余りかんばしくはなかったようである。私もそれは何度か経験した。国内で極めて知名度の高いバイオリニストやピアニストのリサイタルが、都会のホールではおよそ考えられないぐらい閑散としているのである。立ち見が出るほど入ってくれとは言わないが、私は市民として、ガランとした客席でのステージが演奏者に失礼というか、ただただ申し訳ない思いで、奏でられる曲をじっくり聴くどころではなかった。それ以降、私は、コンサートは市外の会場へ足を運ぶことが多くなる。関西圏のホールはもとより、往復夜行バスで東京まで出かけたことも。大都市のホールは概ね満員、気兼ねなく音楽を楽しむことが出来る。アーチストも観客の思いに応えようとする。「ああ良かった」と家路に着く。でも、交通費もかかれば時間もかかる。出来れば自宅から歩いて行ける我がホールでよい演奏に酔ってみたい。
 「田園交響ホール」が稼動して10年あまり経過した2000年過ぎからクラシックの公演が減ってくる。止むを得なかったと思われる。ひどく採算の合わない演奏会をいつまでも開催するわけにはいかない。でも、このままでは決して良くない。
 さて、このたびのホールの大改修、これを記念して2011年度は「市民共同企画」の公演が4ステージ開催されるという。公演経費の一部を市が負担する市民提案のステージである。期待したい。
 しかし、私は、さらに一歩進めて、市民グループが企画の段階から参画、ホールと協働で聴きたいアーチストを招聘、コンサートプログラムの提案、決定からチケットの販売まで行うというようなコラボレーションが出来ないかと思う。過去にも類似の取り組みはいくつかあったのではと思う。全面的な市民参画によるホールの活性化は、それが音楽を通じた新たな「市民コミュニティ」の形成につながっていくのでは、という期待にたどり着く。
 この篠山になくてはならないホール、そして市民あってのホール、観客あってのホールでいて欲しいと心より願っている。



優秀賞 篠山市 男性 62才 ※匿名希望 「たんば田園交響ホールでの思い出」

篠山城跡とお堀は満開の桜で、まるで錦絵巻を感じさせる風情でした。
 たんば田園交響ホールの名誉館長である朝比奈隆先生が指揮者をされ、大阪フィルハーモニー管弦楽団のベートーベン「運命」が始まったその時、突然吹き始めた突風でお城の姿が見えなくなるほどの桜吹雪になったのです。
 それは見事なほどの桜の舞でした。ジャジャジャジャーンの音楽がさらに風の勢いを加速させるかのようで、流れるように花びらが舞う姿は、人生のテーマを感じさせるものでした。あまりにも偶然とはいえ圧巻の桜吹雪の景色に、二階のホワイエにいた私はただただ感動して見とれていました。客席にいる満席の人たちにも呼びかけたくなるような景色だったのですが、私一人が体験した究極の贅沢だったと、今でもそのときの感動がよみがえります。
 「ホロンピア88」祭典のメモリアル施設として文化ホールが篠山の地に建設されることとなり、その名称は建設前に元坂井時忠知事が丹波遊説の折に、文化ホールを切望していた篠山文化協会や篠山音楽協会の関係者の声に応えて、「自然豊かなこの地にふさわしく『たんば田園交響ホール』という様な文化施設があればいいですね」と言われた言葉が仮称となり、完成し公募された中でもそのまま「たんば田園交響ホール」がいいという意見が多かったのです。
 交響という名称が付くならばクラシック音楽の楽しめるホールに、さらにクラシック音楽界の重鎮である朝比奈隆先生を名誉館長にと、当時大阪フィルのヴィオラ奏者であった前川澄夫先生に奔走いただき、その夢が実現したのです。宝塚歌劇の演出家である内海重典先生を初代運営委員長に指名されたのも朝比奈先生でした。電話で直接「私も引き受けるからあなたも受けるように」と強引に頼まれた話を内海先生からよく聞かされました。
 桜吹雪を見るたびに先生方の面影とともに思い出すシーンです。



優秀賞  丹波市 女性 36才 ※匿名希望 「たんば田園交響ホールでの思い出」

 今から約20年前・・思えば私の夢の出発地点がたんば田園交響ホールでした。
 当時「バンドフェスティバル」があり、予定していたバンドのボーカルが当日出られなくなり、友達に急に呼びだされ、わけがわからないまま歌ったのが私の初舞台でした。歌う事で何かを伝えていきたいと、ずっと思い描いていた私も、時が過ぎ、仕事と子育ての毎日に追われてそんな夢も忘れかけていた時、篠山市民ミュージカルのポスターを見て、なつかしく思い昔のビデオを見ていました。「これだれ?お母さん?こんなお母さんもっかい見たい!」という子供の声に背中を押されミュージカルのオーディションに応募しました。出演が決まってからは、仕事を終えてご飯を作り、練習にかけつけるという日が続き思っていた以上にハードでした。だけど子供達や周りのみんなが協力してくれ、応援してくれたおかげで、素晴らしい本番を終える事が出来ました。演出や指導をして下さった先生方やスタッフの皆さん、出演者の皆さんの笑顔は今でも忘れられません。
 このミュージカルに出演したおかげで仕事としてのオファーがあり、順調に歌っていました。子供たちも「自慢のお母さん」だと喜んでくれ「今度は一緒に出ようね」と楽しみにしていた矢先、ガンが見つかり、その後声帯の萎縮から声がかすれて出にくくなり、今までのように歌えなくなってしまいました。くやしくてつらい日々をおくっていたそんな時、一度ミュージカルで出ただけの私の事を忘れずにいてくれ、応援してくれていたホールスタッフのKさんから再び歌って欲しいと連絡がありました。昔のように歌えない不安がありましたが、失くしてしまったものを悔しがってなげくより、今の自分にあるもので、もう一度この場所から再出発しようと思いました。今思えば私の人生の節目にいつもこのたんば田園交響ホールがあり、ホールの人々との出会いがあったからこそいろんな事を乗り越える事が出来、私の人生は光のさす方へ大きく変りました。
 その後のミュージカルでは、念願だった子供達と共演し、みんなで1つのものをつくりあげていく事の大切さ、観客、出演者、その家族、スタッフの皆さん・・そのみんなの思いが1つになった時の感動を子供達自身が実際に感じ、人として忘れてはならない大切なことをミュージカルを通じて学ぶ事が出来たと思います。
 たんば田園交響ホールの皆さん、いつも夢と希望と感動を本当にありがとうございます!




たんば田園交響ホール夢エッセイ 作品集

No.1 篠山市 男性 57才 会社員 「たんば田園ホールでの思い出」
 たんば田園ホールは、私の学んだ篠山鳳鳴高校の跡地に建っている。
これまで、何度も演奏会などに出かけ、それぞれ思い出深い。その中でも、旧多紀郡4町が篠山市へ合併する前年、“北摂丹波の祭典”で行われた「市原清兵衛」のお芝居がとりわけ懐かしく思い出される。
 このお芝居は、江戸時代の篠山藩今田村市原の清兵衛が、重税に苦しむ農民の代表として、冬期間の酒造への出稼ぎを求め、江戸の青山の殿様に直訴した。
その結果、農民の出稼ぎは認められ、庶民は生活の困窮から救われた。だが、清兵衛親子は直訴と言う罪で牢獄につながれることになった、と言うお話だった。これを、篠山のお芝居愛好家たちと、出稼ぎ先の酒蔵のあった伊丹市の芝居グループが共演されたのだった。この演劇により、私たちは地元の伝統的な酒造の出稼ぎの歴史を学ぶことが出来、この祭典に相応しい題材と思った。
 あの阪神大震災では、杜氏をしていた酒蔵の崩壊で命を取り留めた父や、同じく杜氏をしていた叔父などと共に、田園ホールでこの芝居を観た。二人とも、もう鬼籍に入ってしまったが、その想い出は、僕が生きている限り残っている。ここで観た演劇が、郷土の歴史などに関心を寄せるようになった切っ掛けと言えるだろう。


No.2 篠山市 男性 71才 無職 「新しいたんば田園交響ホールの思い出」
 生まれ故郷の丹波篠山に定年退職になってUターンしたとき、ちょうどミュージカルへの募集があり、今さら恥をかく歳でもないのに家族の反対を押し切って挑戦しました。60歳過ぎにして初めての経験と若い人たちとの演技練習では、芋虫になるのも演技で言われるままに恥も外聞も捨ててみんなの前で転げ回りました。練習を重ねる内にセリフを忘れていても覚えの早い子供達が教えてくれ、踊りもなかなか覚えられず真似をするためいつも1秒遅いと言われる始末。練習をやっているうちにみんなが和気あいあい家族同然となりました。
 そして本番を迎えてみんなが最高潮になり終演。次の日には昨日まで一緒に助け合い感動に涙した家族の仲間たちはチリチリバラバラになり、虚ろな寂しさだけが残りました。
 長い人生においてはあっという間のことでしたが、人前での面子も恥も捨ててみんなで一緒に助け合い頑張った充実感と家族愛とそして終わったあとの虚ろな寂しさが、あれから数年経っても私の心の中をいつも走馬灯のように回り続けています。


No.3 丹波市 男性 69才 無職
1、たんば田園交響ホールでの思い出
 東京混声合唱団の合唱を聞けたことが一番の思い出です。
混声合唱の素晴らしさを堪能することが出来ただけでなく、少人数なのに声量がありしかも日本語の言葉が明確に聞こえてきたからです。(それまではメロディは歌っていても歌詞が明確でない合唱を多く聞いていた為に驚きました)当日の指揮者がショーマンシップ旺盛で客席とのやりとりが温かく、団員と客席が一体となり楽しいひとときを過ごせました。当地のデカンショ節を素晴らしい混声合唱で披露してくれたサービスには感服しました。たんば田園交響ホールでの催しのなかで最も感動し満足を与えてくれた催しが東京混声合唱団です。今後もこのような企画を数多く催して下さい。
2、新しいたんば田園交響ホールに期待すること 客席での耳障りな音の排除について2点
2-1 ホール入場者のマナー向上を!
 開演してからも隣の人と話をしている人がいることです。当事者はヒソヒソと話をしているつもりでも、音響効果の良いホールなので周囲の人々に聞こえてくることを知って下さい。そして他人に迷惑をかけることはやめて下さい。会話をしたい人は客席でするのはやめて必ずロビーで願います。
2-2 発生源対策実施を!
 客席で開演中にポリ袋からプログラム他を出し入れをする人がいることです。ポリ袋をクシャクシャにした時の音を赤ちゃんに聞かせると、泣いている赤ちゃんを泣き止ませる効果があるとの例をテレビ放送していましたが、ホールの客席では百害あって一利なしです。
 ホールでは、ポリ袋の発する音もヒソヒソ話の声と同様に迷惑です。そこでポリ袋持参者は入場させないか、ホール入り口でポリ袋を預かるとかして客席へポリ袋を持ち込ませないことを徹底してほしいのです。


No.4 丹波市 男性 「我がホール回想」 ピアノ調律師
 私の生まれ育った町「篠山」。小学生の頃はお城の上から紙飛行機を飛ばしては拾い、また飛ばしては拾って遊んだものです。中学の部活では外濠をよく走らされた記憶がついこの間の事の様に想いだされます。成人になりピアノ調律師になって30年。この職業に就いてどっぷりと業界に生き、現在それを通して地域社会に参加し生涯学習の真最中の私です。仕事は個人宅や公共施設に出向きます。なかでも「たんば田園交響ホール」の仕事はとっても楽しみな場所です。1988年にオープンして以来、これまで以上に質の高い催しが開催され、文化面でとても市民にとりまして有意義な施設となりました。私も仕事を通して関わらせていただく中でとてもたくさんの事を経験させていただき、また勉強になりました。プロの演奏家、そしてアマチュアの方々の生の演奏会を実際に現場で終演までお付き合いさせていただき様々な声も聞かせていただきました。想いを廻らせば数々の感動的な演奏会や演劇を思い出します。リハーサル前に舞台床を叩いて響きを確かめるピアニスト、舞台中央まで何歩で行けるか気にする声楽家、山の芋を一番美味しく食べる料理方を教えろと迫る弦楽奏者etc、色んな方がいらっしゃいました。このような貴重な体験ができましたことも“我が故郷”にたんば田園交響ホールがあるからです!これからもホールと共に素敵な体験ができますこと、そして市民の皆様とご一緒に楽しませていただきますことを望む私です。


No.5 篠山市 女性 43才 団体職員 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 篠山に越して17年。私にとってたんば田園交響ホールの思い出は、我家の子供達の成長と重なります。
 子供達を連れて歌や踊りの楽しいステージをよく見せて頂きました。
 私はホールに足を踏み入れる瞬間が好きです。格調高く厳粛な佇まいの中に一歩入ると華やかな夢のひと時が待っている。期待と喜びで胸の鼓動は高まります。その気持ちは幼い子供も同じ様子で、いつものヤンチャは何処へ行ったか、小さな紳士として開場の門をくぐります。
 心踊る中、ステージが始まると親子共々すっかり魅了され、目はキラキラ満面の笑顔となります。いつも家で見ているテレビの歌番組では決して味わえないライブならではの感動と体験をさせていただきました。
 たんば田園交響ホールに訪れる日は、大人も小人も特別な日であったと思います。幼かった息子も今年の春で社会人となり新たな人生の出発点に立とうとしています。同じくして新しい門出を迎えられるたんば田園交響ホールさん。これからも身近な存在でありながら、私達の感性を響かせて下さい。夢溢れる異空間の入り口にわくわくしながら、又、訪れたいと思います。


No.6 篠山市 男性 71才 無職 「新しいたんば田園交響ホールの夢」
(市中心にあるホール周辺をプラザに!観光のスポットに)
 私たちがホールへ行くことには2通りの目的がある。一つにはホールでの興行する催物を観に行く。もう一つにはホールを催場に利用する。
前者の分は年間の企画により決定されるが、後者の使用しない期間の有効利用を市民参加のためにどうしていくか!をいつも思っているひとりです。
地域文化の中心であるホールを魅力のある価値あるものにしていかなければならない。
今までは県に任せていた責任を切り替えて市民に有意義なものとしていくためには
誰からも愛されるホールへ脚を運ぶ場として年間の大半を閉鎖しているホールを、常設ホールへの変身を図ることが大前提である。
そこで提案するアイテムは
ホール前では最近市民センターでやったような小規模ストーリートライブを。
平日にホールを利用しやすい65歳以上のグループへの利用半額補助
ホール内の練習場所開放を楽屋以外にロビーもオープン。
小規模のファーストフードの内外店の開設。
催し物時間帯の利用客の周辺駐車料金無料化。
人気の映画の上映など
様々なアイデアでホール周辺を市民参加により活性化させる。


No.7 大阪府豊能郡 男性 82才 無職 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 今は亡き祖母と曽遊の思い出忘れ難き「たんば」その篠山の地名を持つ「たんば田園交響ホール」・・・・「期待」と「夢」のぞむところ大きなものがあります。そしてまた、フルトヴェングラーの「英雄」曲と並ぶ「田園」共にベートーベン曲のあの指揮のよる、二度と聴けない(もちろん、レコードやその他の音響設置もあるが)というより、見ることも出来ない勇壮な、あの実像を八十路の坂の「老い」の幻として、未だになつかしんでいるありさまです。
どうかこれからも、常時「たんば田園交響ホール」の「星」として日夜、広い空に輝き響き鳴らし続けてくださいますように希望いたします。各家庭でも、常時鳴り響かせ得るように、「ソノ・シート」その他なども入手できたら嬉しいことでございます。以上、素人=門外漢=のつまらぬ「呟き」ひとりごとでございます。ご海容願い上げます。


No.8 篠山市 女性 60才 絵本講師 「交響ホールよ ありがとう! これからもよろしく!」
 私は、レディス21という女性企画集団に参画して、ホールの企画運営に携わってきた。1年に1回の女性ならではのコンサートに実施、女性だから出来る企画、そして21世紀に向けたハイクオリティな催しというコンセプトに、21人の女性が毎月21日に企画会議をした。
 年齢は幅広く30代から70代までの、多様な考え方、生き方をしてきた女性たちが集まった。会議はとても華やか、且つ騒然、且つ生き生きと、ホール担当者を交えてディスカッション。第1回目は、サーカスのコンサートを企画提案した。男女混声のハーモニーの美しいグループである。案が決済されると、チラシ作りやチケットの販売、そしてロビーでのお客さまのもてなしの仕方等額を寄せあって文殊の知恵を出し合った。ホールの専門用語や出演者の対応の仕方等も習得し非日常の雰囲気を味わうことが出来た。回を重ねるごとに女性の感性を演出しようと、ロビーのディスプレイや、アーチストに演出意図を了解してもらいホール丸ごとお客さまに楽しんでいただけるようにした。コンサート終了後はお客様をお見送りし、ホールを満席にした成功と、拍手喝采の感動と喜びは今も脳裏に残像として残っている。夢と感動を共にしたメンバーとは長年の付き合い、そして強い絆が今も続いている。それぞれの立場で仲間は多方面で活躍し、培ったノウハウを生かしながら人生を謳歌している。私もホールで学んだ全てが心の栄養となり糧となっている。
 フジコ・ヘミングの著書「我が心のパリ」にしたためた言葉『何歳になっても、夢に向かえばいい。遅すぎることはないと思っているわ。やるぞと決めたときからがスタートなのよ。欲ばらず、今よりもちょっと良くなればいいじゃない』私は、この言葉を胸に人生を歩みたい。
 そして、今春リニューアルされる、たんば田園交響ホールに会えるのがとても楽しみである。今度はどのような出会いが待っているのだろうか。雪解けの音を聞きながら春を待ちわびている。


No.9 篠山市 女性 37才 主婦 「私の夢 ~幸せの輪をひろげたい~」
 私は二児の母。4年前、生まれ育った東京から夫の実家に入るために篠山に来ました。美しい自然と澄んだ空気の篠山が大好きになりましたが、30年過ごした東京の生活はすべてリセットされ、友達も仕事も土地勘もすべてゼロからのスタート。更にガンで闘病中だった父は、私がこちらに来て2カ月後に息をひきとりました。どんなに優しくされても、私の心の中は寂しさと孤独でいっぱいでした。いつも作り笑顔で『篠山はいいところです!来てよかった!』という自分・・・。そうすることが精一杯の毎日でした。
 表は笑顔、心は暗闇。でも苦しい中にこそ輝きがあるのでしょうか・・・。今では、大切な友人もでき、家族の笑顔も増え、心から『篠山が大好き!来てよかった!』と言えるようになりました。
 そんなある日、友人が自主上映映画『宇宙の約束』に誘ってくれました。養護学校教師の山元加津子先生やお母さんへのインタビューを中心にしたドキュメンタリー映画でした。映画の中で『すべてのことはいつかのいい日のためにある』という話がありました。見終わると、涙が溢れて、今まで苦しかった心の中がその涙で洗い流されたように感じました。一頻り泣いた後、生まれて初めて真に純粋な気持ちで《この感動を篠山の皆さんに伝えたい》と思いました。
 純粋な熱い思いは実を結び、一月に『宇宙の約束』の自主上映会をすることができました。映画が終わると、皆さんから、あたたかい感想をいただきました。「心が洗われました」「介護している母のことを、前向きに考えられそうです」「ありのままに自分でいいのですね・・・」皆さん状況は違えども、誠実に頑張って生きていらっしゃるのだと心から感じて、勇気づけられた一日となりました。現在は、月1回の自主上映会の企画やビラの作成・配布をしています。活動を始めてから、新しく出会った素敵な方々、知らないところで支えて下さっている方々、協力してくれる家族に感謝する日々になりました。
 今日、河瀬直美監督の映画《玄牝(げんぴん)》を見ました。自然なお産を大切にしている《吉村助産院》が舞台。命の輝きを出産という尊い営みを通して映し出している素晴らしい映画でした。見終わった後、またあの時の純粋な気持ちがわき上がりました。《この感動を伝えたい!》これから親や祖父母になる人、高校生に特に伝えたい!自分の命・これから生まれてくる命の尊さを改めて見つめてほしい!
 私の夢は、この映画をたんば田園交響ホールで自主上映し、ホールを幸せと感動でいっぱいにすることです。そして今、この夢をかなえるための第一歩を踏み出しています。


No.10 篠山市 女性 76才 たんば田園交響ホールでの思い出
 たんば田園交響ホールが設立された時、ほんとうにまぶしく見え嬉しく思いました。このホールの中で多くの公演が開かれ、それぞれの教養、趣味、娯楽等のイベントが展開されるのかと私は期待で楽しくなり、可能なかぎりこの田園ホールへ足を運ぼうと思い会員にもなりました。 
 田園ホールは、いつも活気があり、生花も飾られていましたが、時には水が切れていることもありそれを見てから水のいらない手染めの花をと当時の館長とも話し飾ってみることにしました。最初は、太陽の動く方向へ顔を輝かせて咲くけなげな花。将来へと崇められ迎陽花とも言われる希望の花をホールのメインロビーに持ち込ませてもらいました。草丈は1mから2mもあって、手伝ってくださったスタッフの方も驚かれましたが、立派なホールには似合っていたように思います。それ以来、季節ごとに手創りの華を飾ってきました。大きな作品を多く仕上げました。イベントの内容に合う作品、篠山の里に咲く様々な花たち、出来るだけ季節にも合わせられるならと野、山、庭に咲く花をモデルに創りつづけました。いただいたメッセージの中に、・ホールの花を舞台に持って上ってもよろしいでしょうか。・私の大好きな花を飾ってもらって今日の公演が歓迎されていて嬉しかった。・今夜のクリスマスのイベントを盛りあげてもらうにふさわしいギターへのディスプレイは感激でした。・篠山へ観光に来てホールを見学し大作に驚きました等々。次の月、次の公演にはどんな花にチャレンジしようかと思い続けています。
 振り返ると、田園交響ホールの事務局方々や、お手伝いをされるスタッフ、更に、たんば田園交響ホールをこよなく愛し支えてくださるファンの励ましで今日まで継続して来ることができ、ささやかながら生きがいのひとつとなっています。全面改修後の新しいたんば田園交響ホールへもこのつながりを大切にしたいと思います。


No.11 篠山市 男性 70才 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 そもそも私が交響ホールに関わる始まりは、数十年前もちろん私の独身時代に篠山労音(勤労者音楽協議会)が盛んに活動していた影響で、その後、数人の仲間と音響・照明のグループを作り少ない機材で民謡グループ等の発表会に出張したりで楽しんでいました。数年が過ぎ今から23年程前に交響ホールの建設とオペレーターの募集が始まったと記憶しています?
 交響ホールの初代支配人からオペレーターへの入会を勧められ、一度は断りましたが元々興味が有ったので一期生として入会しました。以後オペレーターの研修を受けていくうちに、初めての操作方法や機材にびっくり。ホール開館以降ほとんど毎日、事務所へ足を運んだのをおぼえています。
 また本番の時にプロの操作を、後ろや横から良く盗み見したものです。その後も仕込み・リハーサル・本番・バラシと何回いや何十回となく出役し、他所のホールへ応援や研修に行き、自分なりに腕を磨いたと自負していますが、毎回本番の一発目の明かり出しには、緊張して腕が震えるのを覚えます。最近では仕事とか地域の事業であまり出役が出来てなかったのですが、3月のリニューアルを楽しみにしています。新しい機材やホールを早く見たいのと若い仲間と一緒に行動して若いエキスを吸収しようと思っています。
 追伸、恐れ多くも 平成7年2月三宅剣龍賞を頂いております。


No.12 篠山市 男性 自由業「たんば田園交響ホールの思い出」
 多くのステージオペレータークラブの仲間に励まされ21年目を向えることが出来ました。
 その活動の中でも印象的に想い出されるのは、2002年ささやま市民ミュージカル「オズの魔法使い」、2003年「森は生きている」、2007年「真夏の夜の夢」、2009年「篠山城BIGTRIP」と4回に渡るミュージカルに携わる事が出来た事が何よりも一番の思い出深いです。「森は生きている」の公演では、九州福岡での国民文化祭に出演した事です。篠山からバスにて九州まで大移動。筑後のホールに着き、地元の皆さんのミュージカルを鑑賞し、夜の10時を廻ってから仕込にかかり、朝の6時に立ち上がりし、朝の9時からリハーサル・ゲネプロと休む間もない状態での本番前でした。出演者の皆さんも大変だったと思いますが、我々スタッフも一致団結して本番を向える事が出来、たくさんの観客の皆さんに喜んで頂いた事が、いま思えば一番印象深く心に焼きついている事です。
 新しくリニューアルされたホールで活動出来る事を楽しみにしています。丹波篠山の音楽・芸能文化の殿堂であるホールがこれからも益々の発展をお祈り申し上げますと共に、これからも出演者の皆さまのお役にひとつでも貢献できればと願っているところです。そして、沢山の市民の皆さんに素晴らしくリニューアルされたホールにお越しくださいますようホールオペレータースタッフ一同願っております。ありがとございました。


No.13 篠山市 男性 「老いたるスタッフより」
 田園交響ホールも美しく化粧されて、新しい一歩を歩みだした様です。
 私達、オペレーターも気分一心人替えて、これからのホールに手助けしたいものです。と言うものの、私自身も老朽化が進みつつあります。当時のような馬力がなくなって来たかもしれません。でも、この手に覚えた技術だけは、生涯忘れることはないでしょう。これからも元気でいる限り、ホールのお役にたてばと思います。
 人、それぞれ夢を見ながら希望に満ちて頑張っている人もあれば、心に悩みを持ったまま走っている人、転んでは走り、又、止まる。それが人の人生かも知れません。しかしながら、その時々の流れの中でホールを去って行く人、又、若くして世を去っていった仲間。そして又、去年、新しい仲間がやってきた。
 さあてー、どうする、オペレータークラブとして、今のままでいいのだろうか、又、去って行く仲間が出てくるのではないか、与えられた仕事を楽しく熟す事が出来るだろうか、もう一度考え直す必要が有るのではないでしょうか。
 さて、あれは、オペラの道具作りだったでしょうか、あの広い廃校の体育館で、夜遅くまで作業した時のこと。外は小雪がちらついていたと思う。それでも多くのスタッフ達が集まった。時たま手をこすりながらストーブで手をあたためては作業をする。それでも、みんなの顔には笑顔があった。活気があった。やる気満々だ。そんな時ある人が、それは事務局の上司だった。「さむいなー、私にも何か手伝い出来ることがないかなー」するとスタッフの一人がたたいた。すると、みんなが手をたたく、あの時の感動はどこから生まれてくるのだろう。それこそが、人の「上」「下」を考えず、民の「上」「下」も意識せず、スタッフ一人一人の思いやりが一つになった一瞬ではなかっただろうか。今になって思うと楽しく、のびのびと出来る場を作るべきだと思いましたね。今は「公指」「公営」の流れかもしれませんが、それでは人はよって来ません。もう一度、考え直す時だと思えてなりません。
 ミュージカルに一言、篠山市内にも音楽家、ダンス、バレー、楽団、コーラスと多方面で活躍しておられる人達が多くあると思います。そういった方々に協力えて作る、又、出演も依頼してはどうだろう。これぞ市民ミュージカルだろうねー?


No.14 篠山市 女性 54才 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 娘は今中学一年生。幼稚園の頃から、エレクトーンを中西先生に学び、小学六年生まで毎年秋にある木下楽器のピアノ、エレクトーン合同発表会に出演しました。
 初めての出演の時は、演奏の始まりに舞台左袖から出てきて礼をして、「ひょっこりひょうたん島」を奏き、礼をして右袖に帰るべきを初回で一番目の出演と言うことでお手本がなく、また左袖へ戻りかけて、会場の方々の笑いをとりました。二年目からは順調に上手くなり間違いなく発表会を盛り上げていました。なぜなら、エレクトーンを弾く方がとても少なくて目立つのです。音も良いホールなので、なかなか良く響いてました。嬉しかった。
 おかげ様で、舞台慣れもしました。今は中学校で吹奏楽部として活躍してます。定期演奏会でも意気揚々と演奏しました。工事が終了して定期演奏会も本当に楽しみです。エレクトーンも もちろん続けているので機会があれば、新しくなった田園交響ホールで弾けたら良いと思ってます。今からも多ジャンルの演奏やプロの方のお招きや催しがとても楽しみです。出演料の高額なアーティストにも来て頂ける新たんば田園交響ホールであれば良いけど・・・・望むのは「小田和正さん」とか・・・B‘Zさんとか・・・それはとても市街混雑でパニックで無理でしょうね。吉本芸人さんなどいいですね。


No.15 篠山市 男子 11才 小学生 「新しいたんば田園交響ホールに期待すること」
 もっとイベントをふやしてほしい。(勉強関係)
 僕は、米村でんじろうさんのサイエンスショーを見てもっとイベントをふやしてほしいです。勉強は計を聞くだけではおもしろくないけど実験はとてもおもしろいです。楽しくおもしろいイベントをたくさんしてください。
 今、ぼくの心に残ることは、大人になってもよい思い出になるでしょう。篠山で育った思い出を!!


No.16 篠山市 女子 7才 小学生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 たんば田えんこうきょうホールではピアノのはっぴょうかいがありました。いろいろなきょくをひき、おきゃくさまにいっぱいはくしゅをもらいました。あとは大山小学校の1、2年生で大山小学校ではじめてのダンスはっぴょうかいにいきました。そこではいろいろな中学校、こう校のみんなばかりで小学校は大山小学校だけではずかしかったです。一ばんに大山小学校ぎんがてつどうスリーナインのダンスをみんなでおどりました。ピアノのはっぴょうかいでは、むずかしいきょくをまちがえてくやしいときもありました。でもピアノの先生やおかあさんにほめてもらいました。
 こんな思い出がつまった田えんこうきょうホールがあたらしくなるのでこんどのピアノのはっぴょうかいがたのしみです。きれいになった田えんこうきょうホールでピアノをひいているときまちがえないように気をつけてやりたいです。ダンスはっぴょうかいはまた出れるようあたらしい田えんこうきょうホールでもがんばります。


No.17 篠山市 女子 7才 小学生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 たんば田園交響ホールでわたしはバレエとピアノの発表会と歌の発表会をやりました。ライトがあたってどんちょうがあくしゅん間は、いつもはくしゅが聞こえてきてちょっときんちょうします。れんしゅうより本ばんの方が時間がたつのがおそくかんじます。それはきっときんちょうしているからです。はっぴょうがおわってせきに帰る時はほっとします。
 わたしは、どきどきのきんちょうも時間がゆっくりながれることもきらいではありません。うまくできた時のうれしいきもちの方が大きいからです。
 みにきてくれた人の大きなはくしゅは「がんばったね」と言ってくれてるみたいです。わたしは「がんばったね」のはくしゅがこれからいっぱいきけるように練習をがんばりたいと思います。


No.18 篠山市 男性 64才 農業 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 それはいつの日だったかクロードチアリ氏のギター演奏会が旧鳳鳴高校体育館(現、市役所本庁前)で催された時のことである。地労協主催と相まって多くの組合員。家族が参加された迫力あるギター演奏に酔ったが、演奏の合間にあるジョークともとれるお喋りの中に「あちらこちら行くが、この様な会場は始めてと・・!」にっこりされた。私は恥かしい思いと同時にショックを受けてしまった。当時の体育館は、よく傷んでいたのと、当日の寒さと隙間風が、なお一層拍車をかけてしまった。その後ホールの建設の気運も高まりを見せ念願であった交響ホールが誕生し、一挙に篠山文化向上の拠点となり心踊る思いであった。
 その後、我が家にも変化が生じたのは言うまでもない。家内がコーラスグループへ、姪二人も吹奏楽へと現在は、毎年何枚かのチケットが届くようになった。それ迄の私は、クラシックが何者ぞ、と思っていたが、演奏会の度に元気やら涙やら頂く破目となってしまったのである。そらは「魂の浄化」であったり「感動」「癒し」「思いやり」「感謝」そんな目に見えない「感じる心」を頂いて来た。決して自分の世界にとどまらず友から友へとポツリポツリと灯りを点し続けている。
 音楽面もさることながら興味あらば講演会にも馳せ参じている。最近では、地元、河合雅雄先生ご紹介による哲学者、梅原猛先生の公演が印象深かった。公演には、物事の原点があり、枝葉がある。そして未来へ無限の拡がりを見ることが出来る。深い文化の探求は、いつも心を豊かにさせてくれる。
 今回リニューアルされたホールがすばらしい企画のもと、篠山から世界へ発信して行くだろう。ある日、少年は草むらに眠りこけた「茜色に染まる夕やみの中、篠山の風をいっぱい吸ったマントと帽子を飾し、田園交響ホールに佇(た)つ宮澤賢治に、おどけたピエロが、何やら楽しそうに語りかけている」それが何なのか、うなされながら少年は目が覚めた、正夢であって欲しいと・・・!


 
No.19 神戸市 男性 59才 会社員 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 先日、友人の結婚式から帰ってきた娘が家内に、開口一番言ったそうだ。
 「8年ぶりだったけど、しっかりバイオリン弾けたよっ。新郎新婦も感激してくれたみたい。」それは半年前、花嫁になる友人から、「私の結婚披露宴で、必ず弾いてね。」と頼まれていた「愛の讃歌」という曲だった。
 現在、娘は神戸を遠く離れて埼玉県で、夫の世話や4歳と1歳の女の子のママとして子育ての真っ最中。友人に懇願されたとはいえ、とてもバイオリンなど練習できたものではない。私は内心、とても無理だろうと思っていたが、彼女はどうやらそれを見事にやってのけたようだった。人は出会う為に生まれてきたと誰かが言っていた事を思い出し、何だか胸が熱くなった。自分が出会った友のため、その友の気持ちに応えるため、喜んでもらうために精一杯尽くす・・・、何と素晴らしい事だと思った。
 家内からそんな話を聞きながら、ふと私は15年程前のことを思い出していた。当時、娘は中学入学と同時に憧れていたバイオリンクラブに入学した・・というより、バイオリンクラブがあることを知っていて、その中学を受験し入学した。そして、家内は決して楽ではない家計をやり繰りして、バイオリンを購入する費用を捻出した。そんなある日、テレビを見ていた娘がこう言った。「古澤 巌さんのコンサートに行きたい!」と。 当時、私は丹波に単身赴任しており、偶然見かけたチラシに「たんば田園交響ホール」というところで、そのコンサートがあるのを知り、何の迷いもなく家族分のチケットを購入した。
 あの頃はどこへ行くにも家族一緒だった。コンサート当日も家族全員で、伸びやかなソロバイオリンの調べを聴き、海外からのゲストも交えた合奏は、実に素晴らしい心豊かなコンサートだったことを今も覚えている。コンサート終了後も握手会があるというので待ちながら、やがて現れたソリストに握手されている娘を見て、私は「やっぱり一流は凄い、来てよかった。」と思った。帰りの車の中で皆が口を揃えたように、「また皆で行こうね。」と言った。何だか家族の絆が深まった気がした。今でも忘れられない爽やかで充実した家族の一日であった。


 No.20 篠山市 女性 45才「たんば田園交響ホールでの思い出」
 冬景色の中、改修工事のシートに覆われた「たんば田園交響ホール」を眺めていると、あの頃を思い出し胸がキュンとする。
20歳で篠山混声合唱団に入団した私にとって、青春のすべてが混声であり、音楽だった。
当時から篠山には多くの音楽サークルがあり、本格的なホール建設は長年の夢。多くの先輩方の並々ならぬご尽力で夢が現実となり、いよいよホールが誕生することになった。秋から冬にかけ、シートに覆われながらも少しずつその大きく美しい姿が垣間見えるあの頃、ちょうど今頃の季節、毎日がワクワクした。あのホールでどんなステージができるのだろう?どんなふうに歌声が響くのだろう?期待でいっぱいだった。
 そしていよいよ完成。真新しいホールに響き渡るオーケストラの壮大な音色は今でも忘れられない。それから多くの自主公演が企画され、私も何かお手伝いを、と表方スタッフとしてチケットもぎりや客席案内、アナウンスのボランティアをした。篠山混声合唱団のリサイタルでは客演指揮に地元出身の畑儀文先生をお迎えし、「田園わが愛」という、篠山にぴったりな組曲に取り組んだ。本格的な舞台と照明に、新調した白いドレスを着て歌うステージでの初舞台は、緊張しすぎて、実はあまりよく覚えていない。
 その後も毎年秋に単独リサイタルを開催し、合唱団のマネージャーの一員として、毎日が忙しく充実していた。市民オペラにも参加し、ダンスの発表会にも出演した。デカンショ節保存会メンバーとしてあの舞台でデカンショも踊った。私の20代の青春のすべてがあのステージに刻まれている、なんて言うほど、そんな、たいした軌跡でもないけれど、自分の中での、かけがえのない道。あの道がなければいまの自分は存在していない。混声での出逢いから、結婚した。夫婦となっても毎年変わらず二人でリサイタルに立ち続けた。6年後、妊娠を機に混声を卒業した。初舞台から10年が経っていた。それから立て続けに3人の子どもたちに恵まれ、育児に忙しく、ホールに足を運ぶ機会もめっきり減っていた。再び、ホールに戻ってきたのは、5年前、篠山少年少女合唱団に娘が入団したときだった。私も1期生として在籍したこの合唱団に、母娘2代にわたりお世話になることができ、とても嬉しかった。そして娘が4年生のときのリサイタルでは「ママもいっしょ!」というステージが作られ、子どもたちと一緒にお母さんたちがホールの舞台で歌うことになった。指揮者の富岡健先生は、奇しくも私たち夫婦が混声合唱団在籍中に何度か指揮をしてくださっていた素晴らしい先生。また先生の指揮で歌える!しかも娘と同じステージで!
 10年ぶりのステージは嬉しくて、感動で、歌いながら涙がこぼれそうだった。娘たちの歌声と、私たち母の歌声とが重なり合う・・・こんな日が来るなんて、自分のことだけに突っ走っていた
20代のあの頃は考えたこともなかった。そして改めて篠山のまちの人々の音楽の絆と、歴史の深さを実感した。
 生まれ変わろうとしているホールを眺めながら、私もまたいつかあのステージに立ちたいと思い始めている。子どもたちが成長し、自分だけの時間ができるようになったら、あの頃の仲間だった皆さんと一緒に新しい舞台で歌いたい。いつになるかわからないけれど、心ひそかにそんな夢をみている。


 
No.21 篠山市 男性 58才 「新しいたんば田園交響ホールに期待すること、夢」
 『夢』には多分「かなわない夢」と「かなう夢」があるのだろう。おかしな例で恐縮だが、私が趣味で奏でる楽器で、「たんば田園交響ホール」を満員するなどは、さしずめ間違いなく「かなわない夢」といえる。従ってこれは「空想」の世界となる。しかし、内外の素晴らしいクラシック演奏家を招いて、このホールを満員にするのは、きっと「かなう夢」に違いない。800名のホールは、やはり満員にしてこそ演奏者と観客が一体となったコンサートとなる。音響効果も生きる。ジャンルに関わらず、良いライブというものは、ミュージシャンとファンが呼応しながら熱いコンサートとなって進行していくのである。
1988年4月、篠山市民の待ちに待った「たんば田園交響ホール」が大阪フィルのベートーベン「田園」で輝かしい旅立ちをした。見事な演奏と素晴らしい音響に観客は酔いしれたことであろう。
多くの市民、特にこのホールが出来るまで北濠端の旧鳳鳴高校体育館などでコンサートに携わった人達にとっては、まさに夢がかなった感動の瞬間だったと思う。
その後、綺羅星のごとく輝く多くのアーチストが篠山を訪れ、印象に残るコンサートを残していった。これには歴代ホールスタッフの企画力やステージオペレーターの皆さんの尽力に負うところも大きかったのであろう。
しかし実はと言うか、やっぱりと言うか、クラシック系統の観客動員力は余りかんばしくはなかったようである。私もそれは何度か経験した。国内で極めて知名度の高いバイオリニストやピアニストのリサイタルが、都会のホールではおよそ考えられないぐらい閑散としているのである。立ち見が出るほど入ってくれとは言わないが、私は市民として、ガランとした客席でのステージが演奏者に失礼というか、ただただ申し訳ない思いで、奏でられる曲をじっくり聴くどころではなかった。それ以降、私は、コンサートは市外の会場へ足を運ぶことが多くなる。関西圏のホールはもとより、往復夜行バスで東京まで出かけたことも。大都市のホールは概ね満員、気兼ねなく音楽を楽しむことが出来る。アーチストも観客の思いに応えようとする。「ああ良かった」と家路に着く。でも、交通費もかかれば時間もかかる。出来れば自宅から歩いて行ける我がホールでよい演奏に酔ってみたい。
「田園交響ホール」が稼動して10年あまり経過した2000年過ぎからクラシックの公演が減ってくる。止むを得なかったと思われる。ひどく採算の合わない演奏会をいつまでも開催するわけにはいかない。でも、このままでは決して良くない。
さて、このたびのホールの大改修、これを記念して2011年度は「市民共同企画」の公演が4ステージ開催されるという。公演経費の一部を市が負担する市民提案のステージである。期待したい。
しかし、私は、さらに一歩進めて、市民グループが企画の段階から参画、ホールと協働で聴きたいアーチストを招聘、コンサートプログラムの提案、決定からチケットの販売まで行うというようなコラボレーションが出来ないかと思う。過去にも類似の取り組みはいくつかあったのではと思う。
全面的な市民参画によるホールの活性化は、
それが音楽を通じた新たな「市民コミュニティ」の形成につながっていくのでは、という期待にたどり着く。
この篠山になくてはならないホール、そして市民あってのホール、観客あってのホールでいて欲しいと心より願っている。


 No.22 篠山市 男性 65才 農業 「たんば田園交響ホールでの思い出」
私がたんば田園交響ホールを身近に感じたのは退職後、コーラスグループ「シルバーエコーささやま」に入団してからであります。
 それまでは永年尼崎市の県立高校に勤務し尼崎市内に単身赴任していました。そのためたんば田園交響ホールがここにあるという位の認識でした。それがコーラスを始めたことで篠山音楽祭に出演し、舞台に立ち歌った時の感動は大変大きなものでした。まさに初めての経験であり、今もその時の情景が鮮明に脳裏に焼付いています。又、縁あって書道協会の先輩である吉田宏美さんの後を継いで看板などに揮毫することになり四季を通じて緊張の冷や汗をかきながら悪戦苦闘して字を書いています。その他文化協会の役員ということでのかかわりもあり、私にとってのホールは退職後の第2の人生における大きな存在となりました。特に一昨年実施したシルバーエコーささやま創立25周年コンサートは私自身いろんな新しい体験をさせて頂き、それらを通じて仲間との絆を強められたことは心に残るものでした。このように田園交響ホールは私にとっての心のよりどころであり、又、修行の場としてさん然と輝く殿堂であります。新装となったホールの舞台に出来るだけ長く立てることを夢見て長生きしたいと思っています。


 No.23 篠山市 男子 9才 小学生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
ぼくは、エレクトーンの発表会と市の音楽会がありました。さいしょに、エレクトーンの発表会は4回出ました。歌を歌ったり、エレクトーンをひいたりしました。そのまえの日に、リハーサルがあるので、あまりきんちょうはしないけど、ときどき、きんちょうするときがありますけど楽しいです。ひきおわったら、やっとおわったと安心します。
 さいごに、3年生と4年生で、市の音楽会があります。さいしょに歌ったのは「さあはじめよう」を歌いました。次に歌ったのは、「世界の子供のマーチ」を歌いました。さいごに「パーム、パーム」を歌いました。歌う前は、ぜんぜんきんちょうしていませんでした。けど楽しかったです。


 No.24 篠山市 女性 71才 自営業 「たんば田園交響ホールでの思い出」
立派なホールができたなぁ・・・この篠山の地に、田園交響ホールが建てられたとき、そう感じたものです。
 それまでは、大きな公演や催しなどができるような会場もなく、中学校の体育館などで小規模な発表会が開催されていたというのが現状でした。でも、交響ホールが建設されてからは、一気にいろいろなジャンルの音楽や芸能、その他文化的な催しが身近なものに感じられるようになりました。
 音響設備は言うに及ばず、舞台と客席の距離感のバランスがとてもよい、すばらしいホールだと、来るたびに思います。
 私は、日本舞踊藤郁会を主宰しておりますが、第1回の発表会を平成元年に開催させていただいてから、今日に至るまで、本当に田園交響ホールには数え切れないくらい通わせていただいています。
 おかげさまで、昨年第8回の発表会をさせていただきましたが、その間22年間の長きに亘り、ホールスタッフの皆様には本当にお世話になりました。
 夜、遅くまでのリハーサルにも、いつも気持ちよく根気よく、こちらが納得できるまでつきあっていただいたり、時には急な音入れのお願いにも、知恵をしぼって対応していただいたりと、本当に親身になって取り組んでいただき、感謝にたえません。
 舞台というものは、出演者だけのものではなく、それを裏で支える人たちがあってこそ、見ている人たちにいろいろなことを伝える力をもつものになるのではないかと、私は思っています。
 年々高齢化しつつある会員たちですが、ひとりひとりが、若々しい気持ちを忘れずに、お稽古を積み、これかも、見て下さるお客様に、少しでも楽しんでいただけるように努力したいと思います。
 そして、今後もスタッフの皆さんとのチームワークを大切にして、踊りが大好き、という熱意を込めて、会場にパワーを届けられるように頑張りたいと思います。


 No.25 丹波市 男性 教諭
 私は篠山産業高校吹奏楽部の顧問をさせて頂いております。月日の経つのは早く、私が篠山産業高等学校に赴任してもう15年が過ぎようとしています。
 そして、本校の吹奏楽部は毎年、このたんば田園交響ホールで定期演奏会を開催させて頂いておりますので、私にとってたんば田園交響ホールは、私と篠山産業高等学校吹奏楽部の思い出そのものと言えます。
 また、私個人としても、このたんば田園交響ホールでの新人演奏会に出演させて頂いた経験もあり、私の音楽人生の中になくてはならないホールとなっています。
 篠山産業高校に赴任したての頃は、定期演奏会も何とか演奏をするだけで精一杯でしたが、徐々にご来場頂いたお客様に楽しんで頂くための企画を盛り込むようになりました。
なにぶん、学生の準備なので、打ち合せでも不十分な上、リハーサルの時間も短く、スタッフの方々には大変ご無理ばかりお願いしてきました。
 しかし、スタッフの方々は快くご支援下さり毎年素晴らしいステージを演出して頂いています。顧問並びに部員一同、感謝の言葉で一杯です。
 その、たんば田園交響ホールがこの度改装されるということで、リニューアルされたホールが、どんなに素晴らしい響きを演出してくれるのかが楽しみで、心が躍る思いをしています。今後とも長い付き合いをしていきたいと思いますので、よろしくお願い致します。


 No.26 篠山市 女性 18才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
私は、音楽が大好きで小さい頃からピアノを習ったり、小学校では合唱団に入り、中学、高校では吹奏楽と様々な形で発表会などでたんば田園交響ホールを使用させてもらいました。
小さい頃は、発表会に出ることが緊張でイヤだったりして、舞台上で泣きそうになったりしたこともありました。小学生になるにつれて落ちついてピアノが演奏できたり、合唱団で大人数で歌ったり、少しずつ音楽の楽しさが分かってきました。でも、やはり一番印象に残っているのは、中学から始めた吹奏楽での演奏です。大人数で一つの曲を演奏することのたいへんさなどを学べましたが、大人に近づくにつれて、舞台を作り上げていくには、ホールのスタッフの皆さんの力は本当に大切だと思いました。
 田園ホールでは、本当にたくさんの思い出ができました。小さい頃からお世話になり、人前でピアノを演奏したり、歌ったり、昔、音楽をしていた母と舞台上で共演できたり、かぞえきれない程の思い出があります。音楽を好きになれたこともこのような機会で音楽ができたからだと思います。これからも、何かの機会で、ホールを使用する時は、感謝の気持ちを忘れず使用したいです。


 No.27 女性 16才 高校生「たんば田園交響ホールでの思い出」
定期演奏会、人権講習会、丹有連合音楽会などでお世話になった。また、たんば田園交響ホールでたくさんの事を学んだりきいたりしてこれて良かったです。
定期演奏会では、本当にお世話になりました。たんば田園交響ホールがあったからたくさんの感動があったと思います。
それに定期演奏会のときのホールが響いたときはとても嬉しかったし、たくさんの感動があって良かったです。
これからもたんば田園交響ホールがつづいていけば良いなと思いました。


 
No.28 篠山市 女性 15才 高校生「たんば田園交響ホールでの思い出」
私は小さい頃から、ヤマハや合唱団、よさこい、吹奏楽など沢山の本番でこの田園交響ホールの舞台を踏みました。
 4歳の時、ヤマハの発表会で初めて田園ホールの舞台に立ちました。4歳のことなんてあまり覚えてませんが、エレクトーンを弾いた時、思っていたよりもすごく音が大きくて、とても驚いたことはよく覚えています。
 小学校の時は、合唱団に入団して、4年生の時に憧れていたセーラ服を着て、団員として初めてリサイタルに出ました。6年生の時の最後のリサイタルでは小学校の卒業式よりもよく泣いていたような気がします。
 それから、中学校に入って、吹奏楽部に入部して、コンクール交歓会や、定期演奏会など、色々な本番でホールの舞台に立ちました。3年生の時の篠山市の音楽弁論大会では、篠中の3年生全員で舞台に立って、翼を下さいを合唱したのと、篠中の吹奏楽部としての最後の演奏だったのでとても印象に残っています。引退する最後の演奏の時に、同級生である3年生全員が客席できいていてくれたのが何となく嬉しかったです。
 そして今、篠山産業高校の吹奏楽部に入部して、定期演奏会など様々な本番で田園ホールの舞台に立っています。
 私にとって田園交響ホールは、私に色々なことを教えてくれたステージです。
 こんなすばらしいホールが篠山にあることを私は誇りに思います。


 No.29 篠山市 女性 16才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
私は中学校の吹奏楽部に入部して初めてホールを使わせていただきました。すごく広くて音が響いているのが分かってすごく気持ちよかったのを覚えています。
 きれいにホールが響くのがすごく楽しかったです。
 色々な本番で使わせていただいたり、公演を見に行ったりたくさん利用させていただきました。
毎回見てもすごくキレイできれいに使っていかないといけないと感じました。
夏休みにはコンクール前の本番でお世話になりました。音楽室での練習とは反響が全然違い、気持ちよく演奏できました。その中でも課題がみつかったりとすごく充実することができました。それはホールを使わせていただいたおかげです。本当にありがとうございます。
感謝の気持ちでいっぱいです。これからも毎年定期演奏会など、色々なめんでお世話になっていくので、感謝の気持ちを持って使わせていただこうと思います。
くやし涙やうれし涙、笑い声、たくさんの思い出がある田園交響ホールをいつまでも残していけるように大切にしていこうと思います。


 No.30 丹波市 女性 16才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
今までたんば田園交響ホールにはたくさんお世話になりました。
私が中学生のときには、丹波篠山吹奏楽祭、高校生になってからはコンクール交歓会、定期演奏会とどれも吹奏楽部関係ばかりですが、たくさんの思い出ができました。
私が特に印象に残っているのは、定期演奏会です。
吹奏楽部にとって、年に一回の大切な行事で3年生の先輩方と立つ最後のステージです。
 その日は朝から晩まで本当にバタバタしましたが、吹奏楽をやってきて良かったと思えた日でした。
こうやって楽しめたのもたんば田園交響ホールがあるからだと思います。
これからもホールを使用する機会がたくさんあると思いますが一回一回を大切に、産高サウンドを響かせたいと思います。
吹奏楽をやっている人にかかわらず、たんば田園交響ホールを大切に思っている人はすごく多いと思います。それは本当にすごいことだと思います。
これから、もっともっとそういう人が増えたら良いなと思います。


 No.31 篠山市 女性 16才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 私は幼い時から篠山にいました。だから田園ホールを使うことが多かったように思います。学校全体で発表会などを聞きに行ったり、部活で演奏会を聞きに行ったり、家族でいろいろなものを見たりと、何度も田園ホールを使わせていただく機会がありました。
特に印象に残っているのは定期演奏会です。
 私は中学校の頃、篠山中学校の吹奏楽部に所属しており、毎年秋になると定期演奏会を催し、その時にはいつもお世話になりました。
演出などでも、いろいろしていただいて、毎年良い演奏会をすることができました。
また、今年から私は、篠山産業高校の吹奏楽部に入部しました。
 そして今年も定期演奏会をし、すごくお世話になりました。
今年は初の試みとして劇を取り入れ、すごく大変だったと思いますが、田園ホールのスタッフさんたちのおかげで、本当に良いものができたと思っています。本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。


 No.32 女性 17才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 私は幼い頃からこのたんば田園交響ホールを使わせていただいて、私の一番最初の本番やいろんな事をこのたんば田園交響ホールで思い出にさせていただきました。私はロビーや受付でもっといろんな人が和らげる、特にロビーではイスだけではなく、ソファーや机など、誰でも気軽に使用できるようなたんば田園交響ホールにしていってほしいと思いました。色やろうかなどを少し工夫するだけで変わると思うので、お年寄りも気軽に来れるような雰囲気のホールを期待したいです。
 また、演奏する機会もあるので、中の雰囲気も今までとは違い、ガラッと変わって良い刺激になると思います。思い出がつまったたんば田園交響ホール。次見られる事を期待しています。


 No.33 篠山市 女性 17才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
私は篠山産業高校吹奏楽部に入っています。たんば田園交響ホールは毎年、定期演奏会で使わせていただいています。このホールはとても広く、音も響くし、たくさん人が入れるホールだと思います。ステージいっぱい使って演奏したり、ダンスしたりして楽しかったです。定期演奏会以外でも習ってたダンスの発表会や学校の音楽会など、いろいろなことで使わせていただきました。
 たくさんの人がいて、その前で何かすることはすごく緊張しましたが、すごく楽しかったです。お客さん(見る側)としては、お笑いを見に行ったことがあります。
いろんな芸人さんを生で見れて、うれしかったです。
 たんば田園交響ホールが変わってもまたこのホールで定期演奏会がしたいです。たんば田園交響ホールがどう変わるのかも楽しみです。
いつもご協力していただき、感謝しています。ありがとうございます。


 No.34 篠山市 女性 16才 「たんば田園交響ホールでの思い出」
たんば田園交響ホールには、たくさんの思い出があります。
幼い頃、音楽教室の発表会をさせていただいたことや、毎年ピアノの発表会で使わせていただいていること、ダンスを習っていた時、夜おそくまでリハーサルをして発表会をしたこと、学校行事や市の行事で使ったこと。そして中学から始めた吹奏楽では、たくさんの本番のステージとして使わせていただいています。
 先輩方との最後のステージとなる定期演奏会では、もう4年もお世話になっています。
泣いたり、笑ったり、怒られたり、ほめられたり。たくさんの思い出がつまっています。
 音楽会では、2階のロビーできんちょうしながら練習した、最後のアンサンブルをしたり。定期演奏会では、何度もリハーサルをしたり、終った後泣いたり。
田園ホールがなかったら、こんな思い出はありませんでした。
田園ホールには感謝でいっぱいです。
これからも、田園ホールでの思い出をつくっていきたいです。

 No.35 丹波市 女性 16才 高校生「たんば田園交響ホールでの思い出」
私は産業高校で吹奏楽部に入部していて、コンクール前や定期演奏会などですごくお世話になっています。たんば田園交響ホールとの1番の思い出は定期演奏会です。
自分たちでお客さんを呼び、ホールいっぱいに音を響かせ、聞いて頂いた方々に感動を届けようと頑張りました。
初めての定期演奏会ですごく迷いなどがありましたが、先輩方の強い思いについて行こうと頑張りました。
私たちがこの企画を成功させるためには、部員たちだけの力では無理でした。リハーサルから最後まで裏で支えて下さったのが、ホールスタッフのみなさんでした。
たくさんの人の思いを込めた演奏会で、ホールいっぱいに音を響かせ、お客さんに感動を伝えられたのでは・・ ・と思います。
私の初めての定期演奏会。2年後には、卒部までの最後の演奏会。たくさん練習して、辛いこともあったし、楽しいこともあるし、色々な思いを込めて毎年ホールに響かせられたらと思います。


 No.36 篠山市 女性 16才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
4歳くらいからたんば田園交響ホールを使わせてもらっています。小さいころのことはあまり覚えていませんが、あの大きなホールでの発表会は特別なものでした。
約9年間毎年使わせてもらい、たくさんの思い出ができました。
 中学になり吹奏楽部に入り、また沢山お世話になりました。舞台に上がりあの時とはまた違う緊張感でライトが照らされる時は今でも緊張してしまいます。でも、その緊張感が良いと思っています。ホールはとても響いて、特に曲の最後など音が残っていて、きれいに決まったらとても気持ちよいです。部室の響かない所での練習だったので、初めてのホールでの演奏の時は楽しくて心地よかったです。それは今でも同じです。高校生になり、吹奏楽部を続けていますが、たんば田園交響ホールでの演奏はやはり、あの時のように楽しいです。
 16年間でほとんど毎年使わせてもらい、4歳のころから始めた音楽の楽しさを知ることができました。だから、今も続けているのだと思います。たんば田園交響ホールでの思い出は、本当に良い思い出ばかりです。


 No.37 篠山市 女性 16才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 演奏会など、ホールを貸してくださったり、たくさんサポートしていただきました。中学校も高校も田園交響ホールのみなさまにお世話になりありがとうございました。
 あと2年間お世話になることがあると思いますが、その時はよろしくお願いします(^o^)
また新しくなった田園ホールで演奏できるのを楽しみにしています。


 
No.38 篠山市 女性 16才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
私は、4年間、吹奏楽部でこのたんば田園交響ホールをつかわせていただきました。おもに定期演奏会でお世話になり、たくさんの思い出ができました。とくに、定期演奏会は、吹奏楽部の一年をしめくくる最後の本番なので、一番思い入れがあります。その大事な演奏会はいつもここでした。
 中学1年のときの、はじめての定期演奏会で緊張していたときも、中学3年の中学さいごの定期演奏会も見守ってくれたのは、田園交響ホールのみなさんでした。
 ここには、私の思い出がたくさんつまっています。まだ定期演奏会も2回あるし、これからもお世話になるかもしれません。その時はまた、いっしょに思い出を作って下さい。


 No.39 女性 16才 高校生
私は、氷上中学校出身の吹奏楽部員です。たんば田園交響ホールとは、その頃はまだ関わりが少なかったせいか、産高に入学してホールをおとずれた時、「こんな感じだったっけ」と思ったのを覚えています。
 それと同時に、これから3年間お世話になる場所だと思いました。
実際、産高の吹奏楽部は、ずっと前から定期演奏会等でたくさんお世話になっています。そのたびにスタッフさんの方々に協力していただいたおかげで、毎年毎年すばらしい結果を残すことが出来ていると思います。たんば田園交響ホールは産高吹奏楽部にとってたくさんの思い出がつまっている場所です。3年生の先輩方が3年間で一番「楽しい演奏」が出来る場所だと思います。だからこの先ずっと大切にしていきたいし、感謝しつづけたい場所だと思いました。これからも産高吹奏楽部の音をホールいっぱいに気持ちよく響かせられるように日々の練習を充実させていきたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。


 
No.40 篠山市 男性 17才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 僕は吹奏楽でパーカッションを担当しているのですが、吹奏楽部での活動の中でホールで演奏させていただく時は、ほとんどが田園交響ホールでした。中学校や高等学校の定演も田園ホールが多いので、演奏させていただく時も、他の学校の定演を聞きに行く時も、田園交響ホールはなくてはならない存在だと高校生になって思うようになりました。
初めてのホールでの本番は田園交響ホールでした。その時なぜかわくわくしたのを覚えています。田園ホールでの本番で定期演奏会のために使わせていただく時や見に行く時以外は音楽祭だったと思うので、他の学校に負けない演奏をしようと思ったりして、自分の実力をためす機会を与えてくれる場所でした。


 
No.41 三田市 男性 16才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
高校になってはじめて田園ホールを知りました。
中学は、郷の音だったので、そこと同じくらいよく響くなと思いました。
今年一年でしたがありがとうございました。
来年からはリニューアルになった田園交響ホールを楽しみにします。
あと2年間という短い時間ですが、これからもよろしくお願いします。
また、他のことでもお世話になるかもしれないのでよろしくお願いします。
 定期演奏会ありがとうございました。


 No.42 篠山市 女性 16才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
私は、この篠山に来てまだ2年程度で、たんば田園交響ホールで関わったのもほんのわずかです。
だけど、もうすでにいろんな思い出ができていて、私にとって大事な場所の一つになりました。学校としての行事では、講演会などでいろんなことを学ぶことができました。
また、吹奏楽部として本当にお世話になりました。最初はこんな広いホールに来たことがなくて、新しいことだらけでびっくりしました。私は今まで自分達の演奏は自分たちで作るものだと思っていたけど、そんな事は絶対なくて、スタッフさんの笑顔や協力のおかげでとてもいい演奏になるんだなと、このホールで演奏することによって気づきました。いつもたんば田園交響ホールで演奏すると、楽しくて終った後に達成感みたいなものが溢れてきます。それはきっとお客様にも伝わっていて、すごく一体した感じがあって、あの空気がとても好きです。
また、他の学校の吹奏楽部と一緒に演奏するときなど、私が見直さなければいけない所に気づかされたり、新しい発見をします。このホールのおかげで、私は少し成長できたような気がします。
 これから先、いろんな本番があって、きっとまたお世話になると思います。私が卒業しても、後輩がこのホールで演奏できて嬉しいと思ってもらえると私も嬉しいです。これからもいろんなことを吸収させてください。


 
No.43 女性 15才 高校生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
去年の11月、私が所属している吹奏楽部の定期演奏会をたんば田園交響ホールでしました。
私ははじめての定期演奏会でとても緊張していました。
でも、たんば田園交響ホールスタッフの方が「楽しんで演奏してください」と声をかけてくださったので少し緊張がほぐれました。
嬉しかったし、少し勇気をもらえた気がしました。定期演奏会をとても楽しく行うことができました。次回の定期演奏会もすばらしいものにしたいです。


 
No.44 篠山市 女性 67才 「たんば田園交響ホールでの思い出」
篠山に立派なホールができた時の感激は今も鮮明に覚えています。そのホールで当時珍しかった女性企画集団「レディース21」として係わった12年間、ステージオペレーターとして係わった6年間は企画する楽しさや舞台・照明・音響を学べた貴重な期間でした。1年に1つか2つの企画を実現するために21人の仲間と長い議論を繰り返した事、重い機材を持って汗だくで舞台裏を駆け回った事など懐かしく思い出されます。
 ホールで学んだことは沢山ありますが、何よりも大事なのはステージを良いものにするために努力すること、お客様を一人でも多く入れる努力をすることなど。当時の私たちは随分的のはずれた所で頑張っていた気がします。それと仲間を大切にすること。ホールでは実に良い仲間を得ることができました。ホールを卒業(?)してこれ迄何をするにも私の傍らにはいつもホールで得た仲間がいました。
 演劇、音楽、絵画、その他どんなジャンルを手掛けても必ず仲間の誰かと一緒でした。今も幾つの企画を共有しています。お互いに心から信頼しあって事に当たれる力強い仲間を持てたことにこの上ない幸せを感じています。又、仲間達が夫々の分野で溌剌と活躍している姿は誇らしいことです。
 最後に、この度平成23年度たんば田園交響ホールの市民企画募集に「左手のピアニスト館野泉、館野ヤンネ父子コンサート」を友人と共に提案し採用されました。念願が叶ってリニューアルとなった懐かしいホールで夢を実現できることに今から胸を躍らせています。初心に帰り、レディース21の仲間はもとよりたくさんの方々の強力を得ながら一人でも多くの皆様に聴いていただけるコンサートを目指してこつこつ努力していきたいと思っています。
 ホールに係わる事から始まった思いもかけない新しい生き方は、私の心にどれ程豊かな充足感を与え続けてくれたかしれません。ホールとの出会いには本当に感謝をしています。
 今後もたんば田園交響ホールが篠山市の文化の核となり、市民に開かれた集える場所になって意欲ある人が育ってゆく事を願っています。


 
No.45 篠山市 女子 8才 小学生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
わたしの田園交きょうホールでの思い出は、たくさんありますが、その中から心にのこっているベスト3の思い出をしょうかいします。
 ベスト3は、NHKのチョコランタンのショーです。きぐるみがかわいかったです。ベスト2はささ山ちくじょう400年祭市みんミュージカルです。歌やダンスがすごくてドキドキして楽しかったです。わたしぐらいの子も出ていて、すごいなと思いました。ベスト1はわたしが出たピアノはっぴょう会です。今まで2回出ました。
 1回目は、1年生のときで、みじかいきょくでした。はじめてだったので少しきんちょうしました。
2回目は、2年生の今年で「サーカスを見に行く」というきょくでした。ステージの色はオレンジにきめて、本番でオレンジの中でひきました。少ししっぱいしましたががんばったと思います。
毎年たんば市からおじいちゃんとおばあちゃんたちが見にきてくれています。
これからもピアノのれんしゅうをがんばって新しいホールでもピアノのはっぴょう会に出られるのを楽しみにしています。


 No.46 女性 丹波市 「たんば田園交響ホールでの思い出」
私は、12年間「レディース21企画委員」としてホールにかかわらせていただきました。
 一言でくくれば「大きくしていただいた」と感謝しております。
 神戸から引越して1ヶ月後に、偶然新聞で「レディース21企画委員」の公募を知り、提言書を送りました。
 幸か不幸かその時点から私の人生が大きく変わったと思っております。
 一般の主婦が舞台企画にかかわり、テレビの向こう側の芸能人や、普段目にする事のない場所や専門用語等にとまどい、その期間に出会った沢山の仲間達、私にとって能力以上の提案企画委員会だったと思います。
 現在の仕事は公共機関ではありますが、事業を企画する中で、今まで培ってきた経験が生かしきれているかはわかりませんが、破天荒な企画を考える時、ふと「レディース21委員会」のメンバーを思い出します。
 大変「しんどく」もあり、「楽しく」もあり、の私の60年分の12年間でした。
 本当にありがとうございました。


 
No.47 篠山市 女性 14才 中学生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
たんば田園交響ホールと言えばピアノ発表会を思い出します。
私は小さい頃、たんば田園交響ホールでよくピアノ発表会に出場しました。6歳で初めて発表会に参加したときには、ホールの大きさにビックリしました。そしてこんな広いホールでちゃんと弾けるんかなぁととても不安になりました。ピアノのある部屋で短時間練習した後はひたすら順番まちで、その間とても緊張していました。そんなときはソファーのあるところに行ってゆったりした気分にひたりました。
本番が近づいてくると発表順にいすに座って舞台そでで待ちます。並べてあるいすを一つ移動するたびに緊張感が増していきました。舞台そでは天井が高くて機会がたくさんあったことをそのときのドキドキ間とともにはっきり覚えています。舞台に出るとライトがとてもまぶしくて前のほうに座っている人が見えにくかったです。でもピアノを弾いているときは、弾くことにせいいっぱいで弾くことしか考えられませんでした。それに弾く時はとても緊張してたけれど弾いているときは楽しみながら弾けました。弾いた後、先生や親、友達が「がんばったね」とか「よかった」と言ってくれました。そのときはとてもうれしかったです。
 たんば田園交響ホールはそんな思い出がつまった場所です。だから改造中ときいて生まれ変わるのが寂しくなりました。でも生まれ変わったら今度また違った思い出を作っていきたいと思います。


 No.48 京都府舞鶴市 女性 幼稚園教諭 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 私のホールとの出会いは、参加ミュージカル“オズの魔法使い”でした。田園交響ホールでこのような催しがあるとは知らずでしたが、以前から「観るだけのミュージカルやお芝居ではなく、自分が舞台に立ちお客さんを楽しい気持ちにしてみたい!」と思っていた時に「出演者募集」を見つけホールに電話をしました。
 その電話の時、地元の者でもない私の問い合わせでしたが、ホールの方がとても親切な対応をして下さり、もの凄い緊張の中オーディションを受け、出演させていただくことになり・・・その後続けて4回も篠山までの道のりを通いチャレンジさせていただきました。
思いっきり、大きな舞台を使って演技をさせてくださることに事にも感謝し、楽しみを身体にしみこませて下さっています。
 はじめてホールに来た時「お城のような何だか風情のあるホールだなぁ・・いいなぁ・・」と思ったのを覚えています。
 そのお稽古や本番での中で、ホールの方だけではなく、沢山のボランティアスタッフがいてはることも知りました。巨大なホールではなく小さめのホールですが、迫も大きく色んなことが出来そうで、また何より携わっておられる方々の“もの創り”への思いが一杯詰め込まれている事を、出演させていただく度に感じています。『素人が舞台に立つ』そんな機会を与えてくださり、舞台の面白さにまんまとはめられてしまい(笑)数年が経ってしまいましたが、沢山の素敵な仲間にも出会うことが出来ました。
 これからも、沢山の人と人との出会いや繋がりの真ん中にこの田園ホールがあり、創る楽しさや演じる楽しさを知る機会等を沢山作って下さるホールであって欲しいです。
 沢山の方に愛されるホールであり続けてください。


 No.49 男性 丹波市 42才 会社員 「たんば田園交響ホールでの思い出」
僕がホールと深い仲(?)になったのはひょんな事でした。仕事の営業で訪問した時のことです。
交響ホールの風神、こと小山さんにこう言われたのです。
「おぬし、篠山市民ミュージカルに出てみんか?」鬼のような笑顔でそうささやかれた僕は弱弱しく
「・・はい・・。」と答えました。
そして導かれるがまま写真を撮って申し込みをしたのです。もう一人、交響ホールの雷神、こと小林さんはこう言われました。
「心配はご無用じゃ。みんなで良きミュージカルを作ろう!」、と。それから僕のお芝居ライフが始まりました。夢のような時間でした。
始めは全く知らない同士の子供から大人までが一つの良いお芝居を作るために笑ったり、泣いたり、ふざけあったり。
でも、そのココロの奥底に秘めた熱い思いをお互いが感じ、刺激し合いそれがいつしか信頼に変わっていく瞬間を見れるのは素晴らしい事でした。
そんな思いが出来る場所があるなんてそれまでの僕は考えもしませんでした。
役でソロのラップ(YO!YO!レッツゲトン!ワッツハプン!ササヤマシティ!)や女装警官など、ムチャ振り多数でしたが楽しかったぁ~。初めてのお芝居チャレンジだった僕は本番でもたくさんの失敗をしましたが、それでもやってよかった!今度の市民ミュージカルもやるぞっ!
それからというものすっかりお芝居の魅力にはまった僕はその他の劇団や市民演劇の放浪の旅にでて腕を磨きました。
そして勇者「キアサマトモイ」となり「経験値23」と「薬草」「かぎ」、「魔法の呪文」を2つ手に入れました。そして、「篠山お笑いS-1グランプリ」の戦いに望んだのです。
その結果・・・なんと!何の間違いか!けっしょうしんしゅつ~!
しかしすでにHPを使い切った「キアサマ」は決勝の戦いに敗れたのでした。
(審査コメントはボコボコでしたが、何だかマニア受けした模様です。)
戦いに敗れて、勝負に勝つと言います!(←負け惜しみ)
でもピン芸でやりきった!その爽快感はまた格別でした!
そんなこんなで僕の人生さえ変えそうな貴重なステージの機会を与えてくれた「たんば田園交響ホール」!ブラボー!ありがとう!風神!雷神!ありがとう!これからもよろしくお願いします!
そして、新しくなった「たんば田園交響ホール」があなたの人生も変えてしまうかもしれませんよ!!
注)一部フィクションが紛れこんでいますが99%位は事実です。
追)お芝居にちなんだブログ書いてます。興味のある方は「キアサマトモイ」で検索を!


 No.50 篠山市 男子 12才 中学生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
ぼくは、たんば田園交響ホールでミュージカルがあって、それをお父さんといっしょにオーディションを受けて合格できました。
 最初できるかなぁと思ったけど、田園交響ホールのスタッフさん達にはげまされてなんとかうまくできました。スタッフさんはみんな優しくいい印象しかありません。ミュージカルの練習はきつかったけど、いろんな人にはげまされてうれしかったです。そしてミュージカル本番、土曜日の日、休みの日だからかもしれないけど、辺り見回しても人ばっかりでした。でもこんな所で緊張していたらダメだと思い切って行きました。一番最初が僕のせりふだったけど、かまずに出来てホッとしました。僕は歌うシーンなどもあったし、第2部では侍や警官の役をしたりと、忙しかったけど、何とか土曜日が終りました。次の日曜日の公演の朝、疲れからか、気がぬけていたからなのか、どっちかわからないけど、腸かぜをひいてしまいました。でも休むわけにはいかないので、しんどいながらミュージカルの楽屋に行きました。その時、いろんな人が「大丈夫?」とか「元気?」とかいろんな声をかけてくれてうれしかったです。一番うれしかったのはミュージカルで知り合った、同じ役の相方が常に僕の所に来てくれたことでした。そんな声援にも押され、寝ているわけには行かないと、しんどいながら、根性で何とかやりきりました。でも夜のパーティは寝ていました。田園交響ホールの思い出は、みんなへの感謝の言葉でいっぱいです。


 
No.51 篠山市 男性 42才 公務員 「たんば田園交響ホールでの思い出」
私が昨年の2月に、篠山市民ミュージカルに出演したとき、この「たんば田園交響ホール」の舞台立たせていただきました。
 私はミュージカルなどの演劇は初めてでありましたが、私の子供(長男)が小学校6年生という事もあり、親子で一緒に何か思い出を作りたいという思いと、「たんば田園交響ホール」のような大きな舞台で演技がしたいと言う思いで、今回市民ミュージカルに参加しました。
 ミュージカルは楽しく良い思い出となったと思っておりますが、やはり「たんば田園交響ホール」の舞台装置、照明装置などの機材がすばらしいものであったことや、それを操作されるスタッフさんや舞台を支えられているホールのスタッフさんが色々と気をつかって頂いたおかげで、よりすばらしい思い出となるミュージカルになりました。
 ミュージカルを終え、親子の愛が深まり、親子の日々の会話も絶えることなく、本当にミュージカルに参加して良かったと思いました。
 また「たんば田園交響ホール」のような大きな舞台で演技したことで、自分に何か自信がつき、仕事やプライベートでつらい事があっても、ヘコタレないようになりましたし、「たんば田園交響ホール」のスタッフさんのお仕事を見ていて、私も舞台のお手伝いがしたいと思って、昨年夏から隣の丹波市でオペレータースタッフとして舞台のお手伝いをしております。
 この度は、「たんば田園交響ホール」がリニューアルされると聞き、あの舞台が・・・・と少し寂しい気もいたしますが、より一層すばらしい舞台が出来上がるそうなんで、期待をしております。
 来年の2月には、篠山市民ミュージカル第5弾があると聞いておりますので、今度は私と長男だけでなく、次男も入れて、「ミュージカルに出たいなあ」、「新しくなったたんば田園交響ホールの舞台に立ちたいなあ」と今からではありますが、思っております。


 No.52 丹波市 女性 63才 たんば田園交響ホールでの思い出
 私がコーラスを初めてから、二十二年もの時が流れた。懐かしい写真の中に真新しい田園ホールの前でメンバーと一緒に写った一枚がある。高まる緊張感と不安、立派なホールのステージで歌える喜びが入り混ざっていたのを今もはっきり覚えている。
 私の長いコーラス活動のスタート地点だったし、田園ホールを身近に感じた記念すべき時間であった。思えば、西宮から丹波に引っ越して来て間もない頃で、四方を山々に囲まれて何もない淋しい田舎に、私は泣きたくなるような気持ちを抱いていた。そんな中、田園ホールで歌うことができる感動は比べる物が無い位、私をワクワクさせたものだった。
 今は宝物になった当時のプログラムを見ると昭和六十三年の第十六回丹波合唱祭とある。「美しく」と「アニーローリー」を歌っていた。多勢の観客を前に、都会のホールにも劣らない素晴らしいステージに・・と思うだけで心臓がドキドキし楽譜を持つ手が震えたことを覚えている。その合唱祭も今年は第三十八回となる。当時私服や白い上衣と黒いスカートが大半だった衣装も、今はカラフルでお洒落なステージ衣装に変り、華やかになった。
 若かった私も還暦を過ぎ、去年の夏には大病で入院と手術を経験した。生まれて初めての入院生活で、健康の有難さを痛感したのは言うまでも無いが、好きな事を楽しめる幸せも思い知らされた気がする。長い年月の間に、田園ホールは実に多くのイベントが開催されてきた。市民参加のオペラや有名歌手のコンサート、演奏会や合唱祭、講演や式典等、文化の中心であった事は誰もが認める所だと思う。
 お堀の向こうの篠山城跡が歴史の中心地であるなら、田園交響ホールは文化の中心地であると思う。地域の誇りであり続けて欲しいし、今後の活躍を期待している。


 No.53 篠山市 男性 62才 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 篠山城跡とお堀は満開の桜で、まるで錦絵巻を感じさせる風情でした。
 たんば田園交響ホールの名誉館長である朝比奈隆先生が指揮者をされ、大阪フィルハーモニー管弦楽団のベートーベン「運命」が始まったその時、突然吹き始めた突風でお城の姿が見えなくなるほどの桜吹雪になったのです。
 それは見事なほどの桜の舞でした。ジャジャジャジャーンの音楽がさらに風の勢いを加速させるかのようで、流れるように花びらが舞う姿は、人生のテーマを感じさせるものでした。あまりにも偶然とはいえ圧巻の桜吹雪の景色に、二階のホワイエにいた私はただただ感動して見とれていました。客席にいる満席の人たちにも呼びかけたくなるような景色だったのですが、私一人が体験した究極の贅沢だったと、今でもそのときの感動がよみがえります。
 「ホロンピア88」祭典のメモリアル施設として文化ホールが篠山の地に建設されることとなり、その名称は建設前に元坂井時忠知事が丹波遊説の折に、文化ホールを切望していた篠山文化協会や篠山音楽協会の関係者の声に応えて、「自然豊かなこの地にふさわしく『たんば田園交響ホール』という様な文化施設があればいいですね」と言われた言葉が仮称となり、完成し公募された中でもそのまま「たんば田園交響ホール」がいいという意見が多かったのです。
 交響という名称が付くならばクラシック音楽の楽しめるホールに、さらにクラシック音楽界の重鎮である朝比奈隆先生を名誉館長にと、当時大阪フィルのヴィオラ奏者であった前川澄夫先生に奔走いただき、その夢が実現したのです。宝塚歌劇の演出家である内海重典先生を初代運営委員長に指名されたのも朝比奈先生でした。電話で直接「私も引き受けるからあなたも受けるように」と強引に頼まれた話を内海先生からよく聞かされました。
 桜吹雪を見るたびに先生方の面影とともに思い出すシーンです。


 No.54 丹波市 女性 「ホールには魔物が住んでいる?」
「巻き・押し」どうやらお寿司の種類ではないらしい。十数年前、私がたんば田園交響ホールに関わって初めて聞いた業界用語だった。巻き=早く・早い、押し=遅く・遅い、何となくうなずける。他にも色々な業界用語が飛び交うホールは、体育会系だった私には新鮮で魅力とも魔力とも思える不思議な所となった。(やっぱりホールには魔物が住んでるんだ~)
 レディス21と言う企画集団では企画のいろはを、オペレーター(舞台裏方)では舞台作りのいろはを教えてもらった。
 これまで企画とは「こんなものをやればいい!」と言う発想力だと思っていた。が、いくつかの事業をしていく内に、企画とは発想力と実行力、つまり、集客をしっかりとし収支を合わせられるかどうかを含めた総合力だと知らされた。集客力の大切さは他にもある。舞台は生き物、出演者とお客がホールという一つの同じ空気の中で繰り広げるドラマ。満席では知らず知らずに出演者のテンションが上がる、それが空気振動でお客に伝わりまた返って来る。時には出演者の 100%を越える素晴らしい舞台となり、両者にとって最高の感動が得られる。こんな実感を何度
もさせて頂き、これが後に自分が事業を立ち上げる時の大きな基本となった。
 また、自分の町のホールで民間のみで裏方を立ち上げる時、舞台裏方の方々には大変なお世話になった。何も分らない私達は、たんば田園交響ホール、四季の森会館がたよりで、なりふり構わず勝手なお願いもした。篠山市の二つのホールを父と母に持ち山南ステージスタッフは生まれ育てられていると言っても過言ではない。
 今もいろんな事に挑戦したい私。自分でも何でだろー?と時々思うが、そんな突拍子もない思いを突き進めてくれるのは、やっぱりホールの魔物に触れたからかも知れない。 


 No.55 篠山市 女性 
2011.2.27 新宿の舞台で、娘がミュージカルの主演を果たした。自分の心を素直に言えない思いを切なく歌い上げ、舞台の空気を変えてクライマックスへと引き込んだ。
1988年、結婚して篠山にやって来た私は、当時好きだったアーティストを田園交響ホールに呼んでもらえないかと事務所を訪ねたのが、すべてのきっかけであった。女性だけの企画集団に入るよう誘われて入会したが、とても言い出せるような雰囲気ではなかった。同じ頃、地域歯科保健事業として、保育園で紙芝居をしながら健康教室を始めていた。人前で話すことが苦手だった自分が、こんなこともできるんだという発見があり、企画集団でチケットのもぎりをしながらも、いつか自分もあの舞台に立ってみたいなとふと思ったことを覚えている。それから、健康教室をより効果的にという思いから演劇を本格的に学ぶようになり、仲間と出会い、サークル活動として田園交響ホールを拠点とした演劇活動にしばし夢中になった。サークル以外にも、素人ながら歌を学んで市民オペラに出演したり、市民ミュージカルへは、2人の子どもと一緒に参加した。
たくさんの人とたくさんの時間を費やし、力を結集させ、公演当日、足を運んで下さる方と共にひと時を共有してできあがる舞台芸術は、とても魅力的だ。
市民ミュージカルでの感動がきっかけとなり自分の使命のごとく突き進んでいる娘、私自身は、今は歯科衛生士として、舞台とは縁遠く足を運んでいただくことは到底難しい皆さまの元へ出向いて、その方の人生そのもので共演し、ひと時を共有することができることに喜びを感じている。
田園交響ホールの存在は、私達親子の人生を導き、そこで得た大きな感動の数々は、少し離れてしまった今でも、いつも私達の大きな力となっている。


 
No.56 篠山市 女子 13才 中学生 「たんば田園交響ホールでの思い出」
私が初めてたんば田園交響ホールに入ったのは、小学校1年生の時でした。サーカスを見に行きました。その時、ピエロにボールを指の上で回してもらったのを覚えています。
二回目は、小学校4年生の時です。私の学校は金管バンドをしていたので、その演奏です。音楽会にも行ったのを今でも覚えています。あの舞台に立った瞬間の緊張感は、今だに覚えています。
私が最後に舞台に立ったのは、6年生の「金管お別れ演奏会」でした。6年間のホントに最後だったので、今もまだ、心はあの感動を覚えています。
響き渡るシンバルの音。
空気を走るトランペットのハーモニー。
決して忘れることはないとおもいます。
心の中で奏でることを、引退しても忘れていません。あの時は、しんどいときも楽しいときもありました。それは全部、私の思い出を満帆に満たしています。


 No.57 篠山市 男性 59才 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 24年前の昭和62年1月、役場企画室で北摂丹波の祭典担当として辞令を受けました。
JR福知山線の複線電化と舞鶴自動車道の開通を祝い、豊かな自然の恵みを継承した文化や伝統を改めて再発見し、豊かな生活空間と新しい都市機能を持つ田園文化都市を創造する北摂丹波の祭典の中核施設として、長年にわたる音楽団体の100円募金や要望活動が実り建設が決定しました。
 私はホールの運営について門外漢で、当時の中西企画係長とホール運営状況調査にキックオフ。運営形態、事業計画、自主事業、予算状況、友の会制度等のノウハウを学ぶため、近畿地域の主なホールの視察にがむしゃらに走りました。
 昭和63年4月の桜ロマン、輝くばかりの城下町にマッチした音楽ホールが完成し、こけら落としは朝比奈隆指揮によるベートーベンの「田園」でオープン。 その後一流アーティストから地元の子ども達まで、多くの人々の発表の場となり、感動のドラマが生まれました。
 催物の主催者にも入場者にも「一期一会」の心を大切にして、ホール使用申込から、ドンチョウが下りるまで、ボランティアスタッフと共に下手舞台袖で見守っていた5年間を思い出します。
 中でも、日本を代表する太鼓集団「鼓童」のメンバーとの出会いから、現在活躍中の篠山太鼓「鼓篠組」結成への橋渡しが出来た事や、「フィガロの結婚」では様々な舞台関係者や多くの仲間に恵まれ、市民の手によるオペラとして上演にごぎつける事が出来るなど、充実した時を過ごす事が出来ました。
来年度から新しく生まれ変わるホールも、県からの移譲に伴い、設備も充実されると聞き及んでいます。丹波の森構想の理念に添った、市民による手づくりの文化活動の推進や、地域の「晴れの場」として、新しい出会いの場づくりと文化的な風土づくりを目指し、文化芸術の発信基地と夢が大きく広がっていく事を期待しております。


 No.58 篠山市 女性 58才 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 20年以上前の新聞記事で「たんば田園交響ホール」という活字を見た時、田園の中に建つ白い大きな建物をイメージしながら「素敵な名前だなぁ」と思ったのがホールの第一印象でした。
 それから機会あって、クラシックコンサート(リバルディの四季)を息子と聴きにホールに訪れました。インパクトのあった「田園交響ホール」の活字と建物・音楽がピッタリ私の中でおさまり一目惚れをしてしまいました。この事がご縁で私は交響ホール・ステージオペレーターの一員となり、また、レディース21女性企画委員のメンバーとしてホールと関わらせてもらうようになりました。
 思春期の頃の私は、「私の居場所」について随分考え悩んだことがあります。それが、ホールとの出会い、ステージオペレーターやレディース21のメンバーとして関わらせてもらう中で是まで知り得なかった老若男女を問わない人達と語れる場、日常から離れた場所で夢を語れる場、ホールから発信される様々な人達との出会いや体験をする中で長い間探し求めていた「私の居場所」をやっと見つけたという思いがしたのです。そしてホールと出会ったことで多くの知的財産、仲間や友は私の大切な財産となり、終の棲家をホールの近くに構えるというまさに私の人生に大きく影響を与えて戴いたホールなのです。


 
No.59 丹波市 女性 36才 「たんば田園交響ホールでの思い出」
 今から約20年前・・思えば私の夢の出発地点がたんば田園交響ホールでした。
 当時「バンドフェスティバル」があり、予定していたバンドのボーカルが当日出られなくなり、友達に急に呼びだされ、わけがわからないまま歌ったのが私の初舞台でした。歌う事で何かを伝えていきたいと、ずっと思い描いていた私も、時が過ぎ、仕事と子育ての毎日に追われてそんな夢も忘れかけていた時、篠山市民ミュージカルのポスターを見て、なつかしく思い昔のビデオを見ていました。「これだれ?お母さん?こんなお母さんもっかい見たい!」という子供の声に背中を押されミュージカルのオーディションに応募しました。出演が決まってからは、仕事を終えてご飯を作り、練習にかけつけるという日が続き思っていた以上にハードでした。だけど子供達や周りのみんなが協力してくれ、応援してくれたおかげで、素晴らしい本番を終える事が出来ました。演出や指導をして下さった先生方やスタッフの皆さん、出演者の皆さんの笑顔は今でも忘れられません。
 このミュージカルに出演したおかげで仕事としてのオファーがあり、順調に歌っていました。子供たちも「自慢のお母さん」だと喜んでくれ「今度は一緒に出ようね」と楽しみにしていた矢先、ガンが見つかり、その後声帯の萎縮から声がかすれて出にくくなり、今までのように歌えなくなってしまいました。くやしくてつらい日々をおくっていたそんな時、一度ミュージカルで出ただけの私の事を忘れずにいてくれ、応援してくれていたホールスタッフのKさんから再び歌って欲しいと連絡がありました。昔のように歌えない不安がありましたが、失くしてしまったものを悔しがってなげくより、今の自分にあるもので、もう一度この場所から再出発しようと思いました。今思えば私の人生の節目にいつもこのたんば田園交響ホールがあり、ホールの人々との出会いがあったからこそいろんな事を乗り越える事が出来、私の人生は光のさす方へ大きく変りました。
 その後のミュージカルでは、念願だった子供達と共演し、みんなで1つのものをつくりあげていく事の大切さ、観客、出演者、その家族、スタッフの皆さん・・そのみんなの思いが1つになった時の感動を子供達自身が実際に感じ、人として忘れてはならない大切なことをミュージカルを通じて学ぶ事が出来たと思います。
 たんば田園交響ホールの皆さん、いつも夢と希望と感動を本当にありがとうございます!


 No.60 篠山市 女性 「父の思い出」
 私の父は家族の為身を粉にして働いた人だった。私が音楽をしなければホールに来ることはなかったと思う。その父が音楽以外にホールに来ることがあった。それは、藤山寛美さんの芝居だった。公演の中、藤山さんがホールの響きがとても素晴らしく良いと褒めていたと帰宅後の父が話していた。その表情はとても誇らしげだったことを覚えている。私もそんな父を見てうれしく思った。音楽に無縁だと思っていたが、家に分厚いレコードが山積みだったことを覚えているし、遠くからでも聞こえるよく響く声を持っていた父。私は父の影響を強く受けていると亡くなってしまってから思う。父も通ったくれた交響ホールで元気で歌えている私は幸せだと思う。最近は、阪神間のホールで歌う機会が増えたけれど交響ホールほどよく響くホールにはまだ出会っていない。もし機会があるならコンクールが開催され残響の良さを多くの人に知ってもらえたら嬉しい。また当たり前のようにホールで演奏している私たちはなんて幸せで贅沢だろう。いつまでも素晴らしい響きを持つホールとして多くの人に愛されて欲しいし、私も演奏したいと思う。



田園交響ホール 〒669-2332 兵庫県丹波篠山市北新町41 Tel 079-552-3600 Fax 079-552-3646 
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